May 31, 2018 21:47 Asia/Tokyo
  • コーラン第39章アッ・ズマル章集団、第44節
    コーラン第39章アッ・ズマル章集団、第44節

今回から2回にわたって、コーラン第39章アッ・ズマル章集団についてお話します。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・ズマル章の名前は、第71節と73節から取られて、ズマルとは、グループや集団を意味します。

 

アッ・ズマル章はメッカで下され、75節あります。この章で何よりも注目されている問題は、唯一神の信仰、特に純粋な心による神への服従と礼拝です。また、復活、最後の審判、人間の行いに基づく神の審判の他、罪を犯した人は地獄に行き、清らかな人は天国に行くことなどが述べられています。

 

アッ・ズマル章の第1節と2節にはこのようにあります。

 

「この書物は英知に溢れた偉大な神から下されたものである。我々はこの書物を真理として汝に下した。そこで神を崇拝し、宗教を神のために純粋なものにするがよい」

 

あらゆる書物の価値は、それを書き記した人物を見ればわかります。コーランは偉大な書であり、英知に溢れた神の知識によるもので、何ものも神の目を逃れるものはないことを知るとき、私たちはその偉大さを悟り、その内容が真理であること、英知や光、導きに溢れていることを確信するのです。

 

第2節では、「我々はこの書物を真理として汝に下した」とあります。つまり、コーランは真理に溢れており、空想や偽りの言葉は一切ありません。この節の終わりには、このようにあります。「だから神を崇拝し、その宗教を神のために純粋なものにするがよい」

 

この節は、正しい礼拝の条件を述べています。つまり、純粋な心、あらゆる欺瞞や多神教信仰から離れたものです。宗教は、人間の人生の精神的、物質的なあらゆる側面を含むものです。そのため、神の僕たちは、その人生の側面のすべてを神のために純粋なものにし、神以外のものを心から追い出し、常に、神の満足のために行動しなければなりません。それが宗教を純粋なものにするということです。

 

アッ・ズマル章の第3節では、再び、純粋さの問題が強調され、このようにあります。「知りなさい。純粋な宗教は神のものである。神は清らかな行いと純粋な信仰だけを受け入れられる。神の命に服従しなさい。人間の思想が作ったものは皆、欠陥があり、欠点を伴っている」

 

 

アッ・ズマル章の第21節を見てみましょう。

 

「汝は見なかったか。神が天から雨を降らせ、その後、それを泉として大地に沸き立たせた。それによって色とりどりの耕作地が生まれる。その後、植物は乾燥し、汝はそれが黄色になるのを見るだろう。それから、それを枯れ枝にする。まことにその中には賢い者たちへの教訓がある」

 

この節は、創造世界における神の偉大さのしるしの中でも、雨という恩恵に触れています。それから、そのような無色透明の水から、色とりどりの植物が育つことが述べられています。雨のしずくが大地に浸透し、地層の奥深くに蓄積されます。それから泉や地下水路、井戸といった形で再び湧き出します。

 

大地が硬くて何ものも浸透することがなかったら、雨のしずくは一滴も土の中に含まれていかず、雨はすべて海に流れ、泉もなければ、井戸も存在していなかったでしょう。また反対に、大地が非常にやわらかいものであれば、雨は土の中の奥深くにどんどんとしみこみ、水を手に入れることは不可能になっていたでしょう。しかし、この2つの調整が適切になされていることは、神の偉大さのしるしなのです。

 

コーランは続けて、次のように語っています。「神は、雨によって、さまざまな色や種類の植物を生育させる」 私たちは皆、いろいろな色をした美しい植物を目に、それらはさまざまな形の果実や葉をつけています。この節はその後、植物のさまざまな段階に触れ、「それらはその後、乾き、黄色くなる。そして強い風に吹かれ、そのうち地面から引き剥がされ、粉々になる」としています。

 

これは植物の世界の話ですが、これと同じことが人間の人生でも繰り返され、その原則は一つであることが人間に警告されています。生、若さと活力、その後の老い、そして死。この教訓に続き、次の節は、敬虔な人間と不信心者を比較し、コーランと神の啓示は、人々の心という大地に浸透する雨のしずくのようなものである、という真実を明らかにしようとしています。そして、きちんと準備の整った大地のみが、雨という生の源を吸収することができるのと同じように、神の恩恵と自己形成によって、用意のできた心のみが、神の節の恩恵に授かることができるのです。アッ・ズマル章の第22節には次のようにあります。

 

「イスラムのために神から胸を広げられた、神からの光を受けた人は、[心を闇にする人と同じであろうか。]心を頑なにし、神のことを思い起こさない人には災いがある」

 

導きと真理の光に対して頑なに閉ざされた心は、柔軟さのかけらもありません。このような頑なな心の対極には、胸を広げた人々がいます。広げたという表現は、受け入れる用意があることをさします。大きくて広い家は、多くの人を受け入れる用意があり、大きくて広い精神は、より多くの真理を受け入れる用意があります。心という鏡から罪というさびを払い落とし、心という家にきれいな空気を満たして受け入れる用意を整えるべきなのです。

次回も、引き続き、アッ・ズマル章を見ていくことにいたしましょう。