May 31, 2018 22:04 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、前回に引き続き、コーラン第39章アッ・ズマル章についてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・ズマル章はメッカで下され、全部で75節あります。この章で何よりも注目されている問題は、唯一神の信仰、特に神への服従と礼拝です。この他、復活、最後の審判、人間の行為に基づく神からの判決、罪を犯した人は地獄に落下し、清らかな人は天国に行くことが述べられています。

 

アッ・ズマル章の第23節では、コーランは最高の言葉であるとし、コーランの特徴を述べています。

 

「神は最高の言葉を下された、その書物の節は、互いに似ていて繰り返されている。その節[を聞くこと]は主を畏れる人々の肌を震えさせるが、その後、神のことを思い起こし、彼らの心や皮膚は和らいで落ち着きを取り戻す。これは神の導きであり、神は誰でもお望みの者を導かれる。だが神が迷わせた者には、導きの手段はない」

 

 

コーランの節は、互いに似通っていて調和が取れており、その間には、いかなる矛盾や対立もありません。人間の言葉が、広がりを見せると、望むと望まざるとに拘わらず、矛盾が出てくるのとは異なっています。コーランは、繰り返しの魅力に溢れた節を持っており、そこには物語りや先人のたどった運命、訓戒や忠告が含まれています。しかし、それらは繰り返されていても、決して飽き飽きしたり、しつこい感じを受けたりすることはありません。これは言葉の美しさの重要な原則の一つです。

 

コーランの重要な特徴の一つは、人々の心への浸透力です。コーランには次のようにあります。「コーランの節は非常に鋭く影響力があり、準備のできた心に、まず畏れを抱かせる。それは彼らの目覚めと行動のきっかけになる。その後、彼らの心の中や態度が穏やかになる。彼らは神のことを思い起こし、そこに真理を受け入れる柔軟な状態が生まれ、それに続いて心が落ち着きを得る」

 

「言え、自分の本質に対する節度を守らなかった私の僕たちよ、神の慈悲への希望を失ってはならない。まことに神は、すべての罪を赦される。神は寛容で慈悲深い方であられる」

第53節

 

この節は、罪を犯した人々に関する、最も希望に溢れたコーランの節となっています。神の慈悲は無限であり、すべての罪が赦されます。とはいえ、この無限の慈悲や赦しを得るには、罪を犯した後に我に返り、道を変更することが条件です。人間の重要な問題の一つは、過去の行動に対する罪悪感です。特に、その罪が重ければ重いほど、その罪悪感も大きくなります。“清らかで敬虔な道、神の道へと方向を転換したとしても、過去の過ちという重荷から、どうすれば解放されるだろう”という考えが、常に頭から離れません。おそらく、このような考え方が恐ろしい悪夢のようにその人の心を苦しめ、こうして、その人は罪を悔い改め、清らかさへと傾くことを妨げられるのです。

 

コーランでは、この問題が解決されています。コーランは、罪を悔い改め、引き返すことを、過去から解放され、新しい生活を始める、あるいは生まれ変わるための絶対的な手段だとしています。コーランは、すべての人間の前に神の慈悲の扉を開いています。その例がこの節であり、罪を犯した人は神のもとへと招かれ、彼らに対し、罪の悔悟によって、過去の過ちという重荷から解放されることが伝えられます。

 

イスラムの預言者ムハンマドは次のように語っています。「罪を悔い改める人は、決して罪を犯していない人と同じである」 明らかに、無条件で、神の慈悲に再び授かることができるわけではありません。罪を犯した人は、全身全霊をかけて引き返すことを望み、心の中に大きな革命を作らなければなりません。また、引き返した後、罪という嵐によって崩れ落ちた信仰の基盤を、再びゼロから築きなおす必要があります。さらに、よい行いによって、精神的、道徳的な問題を償わなければなりません。これらの段階を経て初めて、たとえ、その罪がどれほど重いものであったとしても、神の慈悲という大海原に入ることができます。

コーラン第39章アッ・ズマル章集団、第44節

 

 

アッ・ズマル章の第64節から66節は、多神教と唯一神の信仰について語っています。

 

「言え、あなた方は神以外のものを崇拝するように私に指示するのか。無知な人々よ」

 

唯一神の信仰は、否定できない事実であり、理性のある人間であれば、偶像に対して平伏すようなことはしません。そのため、多神教徒たちが預言者に対して、彼らの神々を尊重し、崇拝するよう求めたとき、預言者ははっきりと、多神教信仰を否定し、唯一神信仰は、取り引きのできるような問題ではないと述べました。

 

 

創造世界には、これほど多くの神の知識や賢明な措置を物語る、神のしるしを目にしていながら、それを捨て、何の価値もないような、無力な存在物を崇拝することほど、愚かなことがあるでしょうか?そのため、多神教信仰という誤った考え方は、歴史から抹消されるべきなのです。

 

 

アッ・ズマル章の第66節は、神への信仰を呼びかけています。

 

「いや、神のみを崇拝し、感謝する者となりなさい」

 

つまり、あなたの崇拝の対象は、清らかな性質を持つ神のみであるとし、それに続いて、感謝することが命じられています。なぜなら、人間の周りに溢れる数々の恩恵に感謝することは、神を知るための階段となるからです。

 

 

アッ・ズマル章の第67節は、最後の審判の日、大地全体が神の力の下に置かれ、天がまかれて神の手に入るとしています。このような表現は、創造世界に対する神の絶対的な支配を表しており、すべての人に、最後の審判で問題の解決や救いの鍵を握るのは神のみであることを知らせようとしています。現世でも、天と地は神の力の下にあります。それなのになぜ、ここで来世の話がされているのでしょうか?この日、神の力はいつにも増して明らかになり、最後の段階にいたります。そのため、すべての人が、すべては神のものであることをはっきりと知るのです。