コーラン第53章アン・ナジュム章星
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コーラン第53章アン・ナジュム章星
今回は、コーラン第53章アン・ナジュム章星を見ていきましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アン・ナジュム章はメッカで下され、全部で62節あります。
アン・ナジュム章は、礼拝でひれ伏す姿勢・サジダを行うべき章の一つで、この章の第62節を読んだり聞いたりした後には、サジダを行うことが義務とされています。この章で語られているのは、星への誓い、啓示の位置づけとそれが預言者の心に下された方法、預言者の天界飛行、多神教徒の偶像崇拝への非難、逸脱した人や罪を犯した人にはそれを悔い改める道が開かれていること、誰も他人の罪を背負わないこと、復活の一部の問題、真理への敵対に固執した以前の民の痛ましい運命、サジダと神への礼拝といった内容です。
アン・ナジュム章の特徴の一つは、節や表現が短く、独特のリズムを持っていることです。そのため、美しく調和の取れた形で読み上げられます。この章の内容は、鋭く影響力があり、眠っている魂を呼び覚ますものです。
アン・ナジュム章の第1節から4節を見てみましょう。
「沈むときの星々に誓って。あなた方の仲間であるムハンマドは、迷っても逸脱してもいない。欲望から何かを言うこともない。彼の言葉は、彼に下された啓示以外の何ものでもない」
この章はまず、誓いの後、あなたたちの仲間であるムハンマドは、決して逸脱しておらず、目的を見失ってもいないと述べています。彼は常に真理の道を歩み、その言動にはわずかな逸脱も見られません。この表現の中で、神は自らの使徒のあらゆる逸脱、迷い、無知、過ちを否定し、敵の中傷を退けています。その後、それを強調し、証明するために、彼の言うことは神からのものであるとし、このように語っています。「彼は決して、自身の欲望から何かを言ったりはしない」 そして、力強くこう宣言します。「彼がもたらしたものは、神から彼に下された啓示以外の何ものでもない」 彼は自分で何かを言うことはなく、コーランは彼の考えによって作り出されたものではありません。全ては神からものであり、その主張の根拠はその中に秘められています。コーランの節を分析すれば、人間がどれほど深い知識や考えを持っていても、決して、そのような深い内容の言葉をもたらすことはできないことが、よく分かります。その言葉は、幾世紀もの時を経てなお、知識のある者や思想家にインスピレーションを与え、進歩的で善良な社会を形成するための基盤となりうるものです。興味深いのは、そのような優れた言葉が、迷信と無知に溢れた環境で育ち、読み書きを知らない、預言者ムハンマドのような人物によって口にされたことです。

アン・ナジュム章の第5節から18節は、預言者の天界飛行について述べています。それは、預言者以外の誰も、何ものも、達成できなかった地位です。このことは、預言者の地位が、神のあらゆる創造物よりも優れ、偉大であることを示しています。預言者ムハンマドの天界飛行は、夜に始まります。預言者がベイトルモガッダス・エルサレムのアクサーモスクに行き、そこから天を行き来したのは、わずか一夜のことでした。朝には家に戻っていたのです。
この天界飛行は、普通の旅ではありませんでした。この旅で預言者が目にしたもの、神との語らいは、どれも普通の出来事ではありません。これに関する説明は、預言者が目にした場面の偉大さを物語っています。全ての事柄は常軌を逸しており、私たちが知る時間や場所を超えた基準の中で起こったものです。そのため、それが私たちの地上における時間の感覚では、短期間のうちに起こったということも、驚くようなことではありません。
伝承には次のようにあります。大天使ジブライール・ガブリエルが、天界飛行の夜、預言者の許に降り立ち、彼に動物を用意しました。預言者はそれに乗り、ベイトルモガッダスに向かいました。道の途中でいくつかの場所に立ち寄り、礼拝を行いました。それからアクサーモスクに入りました。アクサーモスクでは、イブラヒーム、ムーサー、イーサーといった偉大な預言者たちの魂と共に礼拝を行いました。そのときの説教師は預言者ムハンマドでした。そこから預言者の天界飛行が始まり、7つの天の層を一つ一つ超え、それぞれの層で驚くべき場面を目にします。預言者たち、天使たち、地獄とそこの人々、天国とそこの人々を目にしました。預言者が天界飛行で目にした驚くような場面は、それぞれが、創造世界の神秘でした。預言者ムハンマドは、天界飛行から戻った後、しかるべき機会に、自分が目にした事柄を共同体のために語り、それらを人々の教育のために利用しました。このことは、この天界飛行の目的の一つが、その教育面での大きな成果を利用することであったことを示しています。
預言者は天界飛行の中で、心の中に神を見ました。言い換えれば、神は預言者の清らかな心に下ったのです。預言者はその光に溢れた世界で、神に最も近づきました。そこで世界の創造主である神は、預言者に語りかけ、重要な勧告や指示を与えました。
アン・ナジュム章の第33節から先は、人間の行いの結果についていくつかの点を指摘しています。「汝はイスラムに背を向けた人を見たか?その人は、財産をわずかに与えた。[他の人がその人の罪を背負ってくれると考えている。]目に見えないことの知識がその人にあり、その人は[真理が]見えるのか?人々が他の人の罪を背負うことができるなどと、誰が彼らに教えたのか?」
コーランはこの後、他の天啓の教えにはなかった総体的な原則を述べています。その原則とは、誰もが自分の行いの責任を負うということです。コーランには次のようにあります。
「[その人は、]ムーサーの書物で下されたことを知らされなかったのか?また、イブラヒームの書物に下されたことも。この偉大なる預言者は、神の約束を完全に実行し、神の教えを広める道において、いかなる問題も脅迫も恐れなかった。これらの天啓の書物では、誰かが他人の罪を背負うことはなく、人間にとって、自分の努力以外の利益はないとされている」
興味深いのは、この節が、人間の利益は自分が行った努力によるもののみだ、と述べていることです。これは実際、重要なのは努力だということを言っています。その目的が善いものであれば、神はその人に報奨を与えます。なぜなら、神は、行われたことだけでなく、その目的や意志を重視するからです。人間の努力の結果はすぐにその人に返されます。人間の行いは、その日、自分の目の前に明らかにされます。その後で完全な報奨が与えられるのです。
コーランは、以前の天啓の書物の中でも、誰もが自分の罪を背負うこと、来世での報奨はその人の努力の分であること、神は全ての人の行いに対して完全な報奨を与えてくださる、というのが明らかな原則になっていることに触れています。このように考えることで、人間は迷信に走ったり、自分の罪を他人になすりつけたりするのではなく、努力やふさわしい行いに勤しみ、罪を回避するようになります。また過ちを犯した場合には、罪を悔い改めます。これらの節は、「常に懲罰は、その罪を犯した本人に下り、誰も他人の罪をかぶることはない」という法的な原則にも用いられます。
アン・ナジュム章の第42節から先は、生と死、人間の精液からの複雑な創造、人間の人生における様々な出来事に至るまで、この世界のあらゆる事象や出来事は、神の清らかな性質によるものだということに触れています。
アン・ナジュム章の最後の節は、唯一神の信仰の証明と多神教崇拝の否定に続いて、次のように語っています。「そこで神にひれ伏し、神を崇拝しなさい」
もし真理の正しい道を歩み、以前の民のような運命に巻き込まれたくなければ、神にひれ伏すことです。創造世界の全ては、神の清らかな性質によるものなのですから。(了)