魂の健康
前回は、スピリチュアルヘルスと呼ばれる魂の健康が、物質的な要素とは違う、人間を超えた力や源に対する信頼からくる、心の安らぎや平穏、安心感であることをお話しました。今回は、魂の健康についてもう少し詳しくお話することにいたしましょう。
魂の健康を持つ人は、心により大きな喜びを抱き、そうでない人より平均寿命がはるかに長くなっています。今日、身体の健康の分野では大きな進歩が見られているにもかかわらず、魂の健康はそれほど注目されていません。健康に関する一部の議論では、魂の健康は、忘れられた要素とされています。
本来的に魂の健康という概念を信じていない人は、病気にかかるのは人間の身体のみに限られ、心の健康や病気として提起されるものは、人間の公共の福祉に基づいて定められる一種の社会的な契約であるとみなしています。
このような人々の考え方においては、誠実さが心の健康のしるしであり、偽りは心が病に陥っていることのしるしであるとすれば、それは社会的な利益のための合意に過ぎず、そうでなければ、誠実さと偽りの間に全く違いはないとされています。また、今ある事を素直に喜ぶ考え方と強欲、貞節と締りのなさ、敵対と懐柔、寛容と復讐といったものの間には、心と体の健康のバロメーターである現実的な関係は存在せず、あくまでも人間の体と神経に関係がある場合にのみ、健康と病気のいずれかとして識別されると考えられています。たとえば、恐怖心は人間の神経系を源とする病気の一種であり、さらに妄想などは医薬品で抑制、治療できると考えられています。
先に述べたような人々とは別に、精神的な問題を完全に独立したものとして捉える人もいます。このような人々の考えでは、人間の精神は肉体から独立したメカニズムを持っており、自然に機能すれば健康であることになり、そうでなければ精神的なバランスが崩れ、病気である事のしるしであるとみなされます。すなわち、精神的な問題も身体的な問題のように独自の公式を持ち、何らかの要素によりこれが失われた場合、人間の精神状態も乱れ、その人は病気の状態に陥る、というものです。
これに対し、第3のグループに属する人々は、あらゆる物事について、正しい軌道に乗り、その独自の働きや機能が正しく行われている状態をさして、健康であるという言葉を使います。こうした考えでは、手足をはじめとする人間の体の各部分が総じてきちんと機能し、吸収や分泌が問題なく行われれば、体は健康とされます。
また、物事を考える上で支障がなければ、知能が健康とされ、人間をより高い目標への到達と導くことになれば、精神が健康だということになります。これらのことを総括すると、人間は心と体、そして意識というすべての側面が、向上や喜び、幸福に向かっていれば、健康であるといえます。
イスラムでは、魂の健康は心が健康であって初めて確立すると考えられています。このことは、イスラムの聖典コーランが身体的、精神的、社会的な健康を超える存在として、魂の健康に注目していることを示しています。
コーランにおいては、人間は心の持ち方によって、高潔な存在にも、また堕落した存在にもなりえるとしています。健康な心とは、魂が人間としてより高潔な精神と好ましい気質の源を担っている段階をさします。これに対し、好ましくない言動や気質は、不健康な心の状態に端を発しています。
このため、魂の健康は、人間の生活のすべての側面を網羅するものだと言えます。信心深い人は、行動や道を選択するに当たって、常に神を心に思い浮かべます。そのような人は、宗教的に奨励されている事や禁じられている事、神の満足を得られるかどうかなどを考慮した上で、神に従う行動を実践し、神に背く行動を回避します。
このように、人生のすべての局面において神を中心に考えることは、時には、神と直接、関係を持つような宗教的な行動となって現れます。また、神と間接的なつながりを持つことになることもあります。
魂の健康に恵まれている人は、すべての人々を愛しており、そうした博愛的な精神のおおもとは、神に対する愛情にあります。そのような人は、神がすべての僕たちを愛していることを知っているため、神の僕であるほかの人々を愛するのです。また、何事においても神をより所としていますが、原因と結果という論理に基づくシステムを否定することはありません。そのため、その人が神の定める運命に満足しています。このような心からの満足と神の恩恵に対する感謝により、その人は魂の健康を保つことができるのです。
次回もどうぞ、お楽しみに。