コーラン第68章アル・ガラム章筆(2)
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コーラン第68章アル・ガラム章筆、第一節
今回も引き続き、コーラン第68章アル・ガラム章筆を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・ガラム章章は、イスラムの預言者が使命を授かった当初にメッカで下され、全部で52節あります。アル・ガラム章では主に、イスラムの預言者ムハンマドの使命と、敵との闘争について述べられています。
アル・ガラム章で述べられている内容は、筆と書物の偉大さ、神の預言者の特徴、不信心者のしるしと、彼らの非難されるべき性質、庭園の所有者、最後の審判と不信心者の責め苦、多神教徒への忠告と警告、預言者への忍耐の呼びかけ、コーランの偉大さと敵の陰謀といった事柄です。
アル・ガラム章の第17節から33節では、“庭園の持ち主”を意味する、アスハーボルジャンナという名の高慢な富裕者の話が述べられています。この中では、現世の富に酔いしれ、他人を侮辱していた圧制者の屈辱的な結末が、美しい表現で述べられています。
コーランは、この物語によって、富や財産、物質的な可能性に酔いしれて高慢になり、独占欲に駆られれば、すべてのものを自分のために望むようになり、この、“庭園の持ち主”以上の運命をたどることはない、と警告しています。この庭園は、イエメンにあり、敬虔な老人のものでした。彼はその庭園から、必要なものだけを自分のために取り、残りは恵まれない人々に与えていました。しかし、この老人がこの世を去った後、老人の息子たちは、「私たちの方が、この庭園の収穫物を利用するのに相応しい」と言い、恵まれない人たちには、収穫物を一切、分け与えなくなりました。このような決定は、彼らのけちな性質や信仰心の弱さによるものでした。なぜなら彼らには十分な収穫物があり、すべてを占有する必要はなく、貧しい人たちにも分け与えることができたからです。この出来事を受け、彼らの庭園を災難が襲いました。稲妻が落ちて火災が発生し、緑豊かな庭園は、夜の闇のようになり、やがて灰と化しました。

翌朝、庭園の持ち主は、枝にはさぞかし、たくさんの実がなっていることだろうと考え、互いを呼びながら、「果実をもぎ取るつもりがあるのなら、庭園に向かおう」と誘い合いました。こうして彼らは庭園に向かいました。そのとき、互いにこっそりと言い合っていました。「今日は一人の貧者さえ、庭園に入るのを許さないようにしよう」
庭園の持ち主の父親の善い行いのために、貧しい人たちは、毎年、収穫の時期に果物が恵まれるのを待っていたようでした。そのため、このけちな息子たちは、収穫の時期が訪れたことを誰にも悟られないよう、こっそりと行動していました。しかし、アル・ガラム章の第26節と27節には、次のようにあります。「彼らは[庭園に入っていったとき、]それを見て言った。『我々は迷っている。いや、奪われたのだ』」
彼らは貧しい人々から収穫物を奪おうとしましたが、彼ら自身が、誰よりも奪われてしまいました。物質的な収入の意味でも、また、精神的な恩恵の意味でも。
他の兄弟たちのけちな態度を否定する敬虔な兄弟は言いました。「だからあなたたちに、神を賞賛しないのかと言ったではないか」 兄弟たちは自分たちの無知と利己主義、罪を認めて言いました。「私たちの主は、決して圧制を行わない。明らかに、圧制者は私たちであった」
彼らは自分たちに圧制を加えただけでなく、他者にも圧制を行いました。その後、彼らは互いを責めあいました。それぞれが罪を他人になすりつけ、相手を強く非難しました。庭園の持ち主たちは、自分たちの不幸の深さに気づいたとき、叫び声をあげて言いました。「ああ、私たちは反抗者だった」
コーランは、よい人間と悪い人間の生活の様子を、分かりやすいように互いに比較して述べています。コーランは続けて、敬虔な人間の報奨と不信心者の報いについて語り、多神教徒の後悔と失敗を彼らの前に示しています。
エ「[思い起こすがよい。恐怖のあまり、]すねが現れ、頭を垂れながら、主の前に導かれるときのことを。だが罪を犯した人間は、頭を垂れる力さえない。彼らの目は[恥ずかしさの余り]垂れ下がり、全身が卑しさに包まれている」
罪を犯した人は、裁きを受けるとき、大抵、頭を垂れ、全身を卑しさに覆われています。神の御前で裁きを受けるときもまた、現世で神に対して謙虚ではなく、高慢な精神を持ち、反抗を最後の審判まで持ち込んだ人々は、そのような状態で、どうしたら頭を垂れる力など持つのでしょうか。
アル・ガラム章の最後の節は、多神教徒の後悔と失敗に触れ、再び、預言者は狂っているとした多神教徒の言葉を述べ、コーランと預言者が本物であること、正しいことを強調しています。そして最後の節で、次のように語っています。「この神の書物は、世界の人々への忠告と目覚めの源以外の何ものでもない」