セルフケア・健康に向けた自己管理(3)
前回は、セルフケア・自己管理の定義づけについてお話しました。セルフケアに当たっては、目的をもって正しい見識に沿った行動をとり、心と体の健康の維持のために、自らの精神面、社会面でのニーズを確保すべきであることにも触れました。さらに、自己認識にも触れ、自分に対するアプローチの重要性についてもお話し、その理由として人間の精神や情緒面での健康のかなりの部分が、自分に対して持っている感情によるものであると説明しました。
自分自身について知ることは、私たちがありのままの自分にかなった目標を選択し、自分に対してより大きな満足感を得る助けとなります。自分自身について知り、自分の持つ能力、強みや弱点について正しく認識することで、より正確なセルフケアができると考えられます。
中には、時としてある種の特徴により、正しい自己認識に向けた正当な歩みを踏み出せる人もいます。しかし、こうした特徴はいわゆる「傲慢さ」であり、一部の人はこれを誤ってプラスの特徴としてとらえてしまっています。
勿論、傲慢さや虚栄心を自尊心や自分に対する本当の自信と混同してはなりません。なぜなら、自尊心とはあくまでも本当の自分に対するものであり、その人が本当に持つ才能や美徳、しかるべき適性や資格に基づいて形成されるからです。これに対して、傲慢さや自惚れは完全に空想的な存在としての、理想の自分への思いから生まれ、私たちが自分を正しく認識する上での妨げとなります。
私たちが本当の自分について知り、自分を正しく認識するためには、自分が持つ能力や弱点を客観的に捉える必要があります。アメリカの形成外科医であるマクスウェル・モルツ博士は、これについて次のように述べています。
「私の形成外科手術がうまくいった場合にも、これに満足せずに、前よりも美しくなったとは考えず、手術は失敗だったともらす患者もいた。このような人々には、いくら手術前と手術後のその患者の写真とを比較して見せても、手術がうまくいったと納得させる事はできなかった」
モルツ博士はその後、自己認識の心理学に関する数多くの著作を残しています。こうしたモルツ博士によれば、すべての人間は自分の外見や体の美醜に関してある種のイメージを抱いており、そうしたイメージが変わらない限り、美容外科手術をもってしてもその人に「自分はこれでよい」という考えをもたせることはできないとされています。
自己認識を促す要素としては、これまでにお話した内容に加えて、ほかにもこの技能の獲得を助けてくれる要素が存在します。その中で最も重要なことは、本当の自分を受け入れることです。
本当の自分を受け入れることとは、長所や欠点も含めたありのままの自分を認め、愛することです。そのためには、自分も時には誤りを犯したり、約束を守らなかったり、自分や他人を満足させる言葉できない場合がある、という現実を受け入れなければなりません。現実に私たちは、常に自分の周りにいる人々全員を満足させ、常に彼らの要求に従って行動する事はできません。このため、そうした場合に自分を叱責したり、自分に過剰な期待をかけたり、さらには本当の自分から逃避してはならないのです。
一部の心理学者からは、大変興味深い学説が提唱されています。今回はそうした心理学者による話をご紹介しましょう。
「ある時、大勢の人々の集まりの中である人がスピーチをした。そのとき、その人はポケットから100ドル紙幣を取り出して、“誰か、このお金を欲しい人はいらっしゃいますか?”と問いかけた。すると、そこにいた人々全員が我先にとばかり手を上げた。
そこで、その演説者は“結構です。それでは、私はこのお金を皆様方のうちのお一方に差し上げましょう。ですが、その前にある事をしておきたいと思います”と告げるや、驚きに駆られている人々の目の前で、おもむろにその紙幣をくちゃくちゃに丸めた。そしてなおも、目の前にいる人々に向かって、”このお札はくちゃくちゃですが、それでもこのお札をほしいという方はいらっしゃいますか?”と問いかけた。すると、それでもその場にいた人々は手を上げてイエスという意思表示をした。さらに、この演説者はしわくちゃに丸めた紙幣を、今度は地面に放り投げ、何度もそれを踏みつけ、靴で地面になすりつけ、それを拾い上げて、再びこのお金が欲しい人はいますか、と人々に問いかけた。やはり今度も、その場にいた全員が手を上げた。
そこで、この演説者は次のように述べた。“皆さん、今私はこのお札に対してひどい事をしました。でも、このお札の価値はまったく失われておらず、皆さんは誰もが、このお金を欲しいと望んでいらっしゃいますよね!」
実生活における自己認識も、まさにこのようなものです。私たちは、多くの場合においてある決断を下したり、問題に直面したときに、おじけづいたり、荒波に揉まれ、汚名を着せられたりして、「自分はもはや価値のない存在だ」と思い込んでしまうものです。ですが、決してそうではありません。私たちの身にどれほど災いや不運な出来事が降りかかっても、私たちの値打ちが失われることはなく、私たちを愛してくれている人々にとってはなおも、私たちは価値ある人間なのです。
次回もどうぞ、お楽しみに。
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