光の彼方への旅立ち、アル・アハザーブ章(16)
コーラン第33章アル・アハザーブ章部族同盟、第63節~第68節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第63節
「[預言者よ、]人々は最後の審判の時について汝に尋ねるだろう。言え、『その知識は神のもとのみにある。あなたは知らないが、恐らく最後の審判は近いであろう』」33:63
(63)یَسْأَلُکَ النَّاسُ عَنِ السَّاعَةِ قُلْ إِنَّمَا عِلْمُهَا عِنْدَ اللَّهِ وَمَا یُدْرِیکَ لَعَلَّ السَّاعَةَ تَکُونُ قَرِیبًا
“最後の審判は起こりえない”と理論付けることのできなかった多神教徒や不信心者たちは、人々に疑いを抱かせ、預言者ムハンマドへの人々の信仰を弱めさせるため、「もし彼の言うことが本当であれば、最後の審判がいつ起こるのか言ってほしい」と主張していました。あることがいつ起こるのか分からなかったとしても、それが起こらないことの根拠にはなりません。私たち人間は皆、いつの日か死ぬことを知っていますが、それがいつ訪れるのかは誰にも分かりません。いつ死ぬのかを知らないからといって、それが死なないということの根拠にはならないでしょう。
また、もし預言者が、1000年後に最後の審判が起こると言ったところで、彼らには、預言者の言葉が正しいことを理解し、信仰を寄せるために、1000年後まで生き続けることは不可能です。
この節は続けて、次のように語っています。「最後の審判がいつ起こるのかを知っているのは神のみである。預言者はそれを知っていて隠しているわけではない。重要なのは、敬虔な人間であれば、最後の審判はまもなく起こるのだと考え、自分の行動に気をつけることである」
第63節の教え
- 最後の審判がいつ起こるのかを知らないからといって、それが起こるという事実は変わりません。敬虔な人間は、神の預言者ムハンマドの誠実さと正直さを信じることによって、最後の審判が起こることも信じています。
- 私たちは、死を迎え、神の裁判に出席するための準備をしておくべきです。死の時期がいつであるのかを知ることは重要ではありません。死を迎える準備をすることが重要なのです。
第64節
「神は不信心者たちを呪い、彼らに多くの業火を用意された。」33:64
(64) إِنَّ اللَّهَ لَعَنَ الْکَافِرِینَ وَأَعَدَّ لَهُمْ سَعِیرًا
第65節
「彼らはそこに永遠に留まり、助けを得ることもない。」33:65
(65)خَالِدِینَ فِیهَا أَبَدًا لا یَجِدُونَ وَلِیًّا وَلا نَصِیرًا
第66節
「その日、彼らの顔は業火の中でひっくり返り、[後悔に駆られて]言う。『ああ、神と預言者に従っていたらよかったのに』と」33:66
(66) یَوْمَ تُقَلَّبُ وُجُوهُهُمْ فِی النَّارِ یَقُولُونَ یَا لَیْتَنَا أَطَعْنَا اللَّهَ وَأَطَعْنَا الرَّسُولا
“最後の審判がいつ起こるのか”という不信心者の質問について述べた前の節に続き、この3つの節は次のように語っています。「宗教的な信条を弱め、人々と神の預言者の関係を揺るがそうとする人々は、現世で神の慈悲に授かれないだけでなく、来世でも責め苦を味わうだろう。それも、痛ましい責め苦であり、神の宗教と預言者に対してあのような態度を取らなければよかったと後悔に駆られることになる。しかし、そのとき、それが何の役に立つだろう?過去を償い、罪を悔い改める機会はもはや存在しない。誰も彼らを救ったり、彼らの責め苦を減らしたりできる者もいないのである」
第64節から66節の教え
- 不信心や否定は、真理を頑なに拒否する心から生まれるもので、現世と来世で、神の呪いと怒りを招きます。
- 現世の社会制度に反し、来世では、誰も他人の助けに走ることはできず、誰かを責め苦から救うことは不可能です。
- 現世と来世で救われる唯一の道は、神とその預言者に従うことです。そうしなければ、来世で後悔することになります。
第67節
「彼らは言う。『主よ、私たちは私たちの首長に従っただけで、彼らが私たちを道から踏み外させたのです。」33:67
(67) وَقَالُوا رَبَّنَا إِنَّا أَطَعْنَا سَادَتَنَا وَکُبَرَاءَنَا فَأَضَلُّونَا السَّبِیلا
68節
「主よ、彼らに倍の責め苦を与え、呪いを下してください。大きな呪いを』」33:68
(68) رَبَّنَا آتِهِمْ ضِعْفَیْنِ مِنَ الْعَذَابِ وَالْعَنْهُمْ لَعْنًا کَبِیرًا
責め苦を目にしたとき、罪を犯した人々が主張を始め、彼らの迷いの原因になった人々に呪いをかけます。とはいえ、彼らはそのような主張によって、自分の罪を正当化することはできません。なぜなら彼らは、先祖や首長に従うのではなく、自分の預言者や善良な人々に従うことで、迷いに陥らないようにすることもできたからです。また、部族の首長たちが、彼らに服従を強制したわけでもありませんでした。だから彼らには、首長たちの考え方を受け入れないことも可能だったのです。
罪を犯した人たちが部族の首長と言っているのは、権力者や富裕者たちのことです。彼らは、真理と偽りを区別する基準とはなりえず、彼らではなく、知識や英知を持つ人々のもとに走っていたなら、罪を犯した人々には救いの希望があったでしょう。
興味深いのは、神の呪いを受けることになった人々が、権力者や富裕者たちに関して、その倍の責め苦や倍の呪いを求めることです。しかし、このような求めが受け入れられれば、彼らの責め苦も二倍になるでしょう。コーラン第7章アル・アアラーフ章高壁、第38節で、神は権力者や富裕者たちの倍の責め苦を求める人々に対し、次のように語っています。「どちらのグループにも倍の責め苦がある。不信心の指導者たちは、人々を道に迷わせたために、また従った人々は、圧制的な指導者を助けたために責め苦が下される。もし彼らが従っていなかったら、不信心で圧制的な指導者たちが単独で圧制を続けることができなかっただろう」
第67節から68節の教え
- 罪を犯した人は、最後の審判で自分の過ちを正当化し、その責任を他の人になすりつけようとします。
- 社会の指導者たちに盲目的に従うことは、理性的にも、宗教法の観点からも受け入れられることではなく、後悔の源となります。
- 誤った慣習によって人々を道に迷わせた人たちは、自分が死んだ後にも、その影響の責任を負うことになります。