2月 03, 2022 20:45 Asia/Tokyo

皆様こんにちは。このシリーズでは、イランで実際に使われているペルシャ語の生きたことわざや慣用句、言い回しなどを毎回1つずつご紹介してまいります。

今回ご紹介するのは、「『王書』は結末がハッピーエンドである」です。

ペルシャ語での読み方は、Shaahnaame aakhere-sh khosh astとなります。

「王書」といえば、10世紀のイランの偉大な英雄叙事詩人フェルドウスィーの作品がペルシャ詩文学の代表的な作品の1つとして知られています。具体的には王を賞賛する内容の詩文ということになります。

さて、10世紀に現在のアフガニスタンやイランの一部などを支配していたトルコ系の王朝、ガズニー朝の為政者マフムード王は、当代切っての大詩人フェルドウスィーに対し、支配者たる自分を賞賛する詩文を作るよう依頼しました。言い伝えによりますと、他にも支配者を賞賛するための詩を吟じた人々がいましたが、マフムード王を賞賛する部分では自分の憶測によりマフムード王の野望を賞賛していました。しかし、物事の道理を知っている人は、「王書の結末に至るまでは、マフムード王の行動の善悪について判断を下すべきではない、王書は最後がハッピーエンドだ」と忠告していました。つまり、本当に支配者を賞賛する内容であれば、最初や途中だけでなく、最後でも賞賛されているはずです。ですが実際には、そうした人々の詠んだ王書の最後の部分では読者や聞き手に対し、マフムード王の醜悪な実態をうかがわせる内容が詠まれていたということです。

このことから、この表現は後になって、「物事は最初や途中過程だけでなく、結末を見なければ本当によかったかどうかは判断できない」ことを意味するようになり、軽率で性急な計画に手をつけ、それに固執しようとしている人に対して、このことわざが使われるようになりました。いうなれば、このことわざは英語のことわざにある「最後に笑う者が最もよく笑う」に相当するかと思われます。

最初や途中経過がうまくいっているからといってぬか喜びせず、最終的な結果を見て正当な判断を下すことが大切なのではないでしょうか。それではまた。

 


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