ノーベル平和賞を受賞したイスラエルのテロリスト、メナヘム・ベギン
(last modified Mon, 11 Mar 2024 07:04:39 GMT )
3月 11, 2024 16:04 Asia/Tokyo
  • ノーベル平和賞を受賞したイスラエルのテロリスト、メナヘム・ベギン
    ノーベル平和賞を受賞したイスラエルのテロリスト、メナヘム・ベギン

3月9日は、パレスチナのデイル・ヤーシーン村での虐殺事件を指揮したシオニスト政権イスラエルのテロリスト、メナヘム・ベギンの命日にあたります。

メナヘム・ベギンは、1948年4月9日、ユダヤ人武装テロ組織・イルグンを指揮して、聖地ベイトルモガッダス・エルサレムを臨む高台にある平穏な村、デイル・ヤーシーンを一切の事前通告なく襲撃し、その日の日没までに、数世紀にわたりパレスチナ人が暮らし文化的生活を営んできたこの場所からすべての生物を虐殺により消し去り、徹底的に破壊させた人物です。

この記事では、メナヘム・ベギンの生涯を6項目に分けて追っていきます。

 

1- 家族

シオニスト政権イスラエルの右派政党・リクードの設立者であり、同政権の首相も務め、最も良く知られた過激派シオニストの1人であるメナヘム・ベギンは、1913年に当時ポーランド領だったブレスト・リトフスク(現ベラルーシ領ブレスト)で生まれました。 彼の父親、ゼエフ・ドフは過激派シオニストであり、母親のハシア・ベーグンは、有名なユダヤ教の宗教的指導者・ラビの家庭の出身でした。

 

2- テロ活動の開始

ベギンは16歳だった1929年、シオニスト指導者の1人であるゼエヴ・ジャボチンスキーの思想を耳にし、彼が提唱する道や信条、すなわち修正主義シオニズムに強い興味を持つようになりました。

 

青年時代のメナヘム・ベギン

 

そして、ジャボチンスキーの立ち上げた修正主義の青年テロ組織・ベタルのメンバーとなり、異例のスピードで昇進を遂げ、17歳でブレスト・リトフスク支部の司令官となりました。

彼は、ベタルの規模が拡大する中で名を知られた幹部の1人となり、1935年にポーランド・クラクフで開かれたベタル世界会議では、指導者の一員に名を連ねるまでになりました。

 

メナヘム・ベギンと妻

3- パレスチナへ

ベギンは1942年初め、パレスチナを訪れ、最初にハイファ、そしてベイトルモガッダス・エルサレムで、軍司令官付きの英語通訳として働きました。

そして、同年9月にベタル・パレスチナ支部の全権限を委任され、さらに翌1943年には、イルグンの責任者となりました。

また、1942年から1948年にかけては、パレスチナにいるアラブ人の大量処刑や、当時パレスチナを委任統治していたイギリス政府が使用する公共施設の爆破、破壊行為といった、様々なテロ行為を行いましたが、そのほとんどは、シオニズム指導者らが黙認したものでした。

ベギンとその指揮下にある組織が行ったテロ行為の主な例には、イギリス政府がパレスチナ内の拠点としていたキング・デイヴィッド・ホテルの爆破、そして、デイル・ヤーシーン村の無辜の民間人に対する残虐な虐殺が挙げられます。

彼がこの時代に関わったテロ事件はあまりに数が多く、イギリスの諜報機関は彼を「シオニスト最大のテロリスト」と呼んでいました。

また、彼自身も米ニューヨークで行った演説で、「私は元テロリストである」と述べていました。

 

4- 政界での活動

ベギンは、1948年にシオニスト政権イスラエルが樹立された後、右派政党ヘルート(=自由)を設立しました。

彼はその後、ヘルート党の党首として財政援助を求めるためにアメリカを訪れましたが、思想家のハンナ・アーレント氏をはじめとした米在住のユダヤ人知識人はその際、米紙ニューヨーク・タイムズへ寄稿し、ベギンについて「組織の仕方、採用手法、政治哲学において、ナチス・ドイツやイタリア・ファシスト党に非常によく似た党の党首」だとしました。

この寄稿では、住民240人が殺害されたとされるデイル・ヤーシーン虐殺事件についても触れられ、署名者の中には、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者のアルベルト・アインシュタインも含まれていました。

ベギンはその後の1973年9月、すべての右派政党を糾合したリクード党を設立し、1977年の選挙で予想外の勝利を収めて政権を握りました。

 

虐殺事件により「デイル・ヤーシーンの肉屋」と綽名されたベギン

 

リクードの選挙勝利後、シオニスト政権は世界的な大規模プロパガンダを展開して、メナヘム・ビギンの以前の行状を人々の記憶から消し去り、彼を原則に従う率直で誠実な政治家といった人物に見せるよう企みました。

 

5- ノーベル平和賞受賞

ベギンは1978年、エジプトと結んだ平和条約によって、同国のサダト大統領とともにノーベル平和賞を受賞し、 世界中から非難を浴びました。

ノーベル平和賞は、平和を象徴するというよりは、殺人者の経歴を覆い隠す象徴といった方がおそらくふさわしいであろう賞です。

その証拠に、インドの精神的指導者・人権活動家であるマハトマ・ガンジーのような人物がノーベル平和賞を受けなかったにもかかわらず、ベトナム戦争での虐殺などに関わったアメリカのキッシンジャー元国務長官やベギンのような、歴史の緊張した時期に世界中の人々の血で手を汚した人物が、同賞を受賞しています。

 

6- 政界引退と死

ベギンは1981年、イスラエル首相として二期目を開始したものの、1983年に鬱病のために政界を引退し、1992年3月9日に死去しました。

 

 


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