ハラブジャの化学爆弾投下記念日
1980年代のイランイラク戦争末期、人類に対する犯罪が行われました。
ハラブジャは、イラク北部コルデスターンにあり、1988年3月16日、イラクのサッダームフセイン軍の化学兵器の攻撃にあいました。イラク軍は48時間でおよそ500発の化学爆弾とロケット、1500発の化学砲弾を、ハラブジャの民間人やクルド人の村に落としました。これらの爆弾や砲弾には危険な有毒ガスが含まれていました。ハラブジャへの化学爆弾による爆撃の影響で、およそ5000人が命を落とし、1万2千人が負傷しました。
アナリストの一部は、ハラブジャの化学爆弾投下の悲劇の深さについて、この戦争犯罪は、大量殺戮、広島の悲劇の繰り返しだとしています。国際法の観点からも、ハラブジャに対する化学爆弾の投下は世界人権宣言と化学兵器禁止条約への明らかな違反となっています。この点から、この措置は戦争犯罪を超えたものであり、人間の一集団を消すための人類に対する犯罪の明らかな例と見なすことができます。
こうした中、ハラブジャの悲劇はなぜ起こったのでしょうか。誰がこの恐ろしい犯罪の背後にいたのでしょうか。イランイラク戦争から10年たって、国連から戦争の開始者として認定されたサッダームフセインだけがこの恐ろしい犯罪を引き起こした唯一の存在なのでしょうか?
後に公表された文書が示しているように、ドイツ、オランダ、フランス、ベルギー、ロシア、アメリカの207の企業が化学物質や技術をイラクに送っていました。シラクやミッテランといったフランスの著名な人物も、イラクへの化学兵器の売却に関わっていました。これらの国の企業は実際、サッダームの化学兵器による犯罪に加担していました。
一方で、ハラブジャの犯罪が起こる前に、イラン北西部のサルダシュトにも化学爆弾が投下されました。
1988年6月24日、サルダシュトの化学爆弾投下で、100人をこえる民間人が命を落とし、8000人が毒ガスで負傷しました。これは、民間人が住む町への化学爆弾の投下という世界で初めての犯罪であり、サッダームフセイン政権は、イランイラク戦争の間、何度となく広範にわたり、化学兵器を使用していました。イラクの化学兵器による最初の攻撃は1981年1月に遡ります。その日から戦争が終わるまで、イラク軍は3500回以上、化学爆弾を投下し、国境に住むイラン人や前線にいた兵士十万人以上を死傷させました。イランはハラブジャの出来事の前に、国連事務総長に複数の書簡を送り、サッダーム政権による化学兵器の大規模な使用について、問題を検討するため、国連の専門家団の派遣を要請しました。しかしながら国際社会の沈黙や西側の国連決議の拒否権行使により、サッダームによって大量破壊兵器の使用は続けられました。
こうした沈黙の結果、障害や難病を持つ子供が生まれました、こうしたダブルスタンダード、矛盾が続く限り、世界は平穏を享受することはなく、ハラブジャやサルダシュトの化学爆弾投下のような恐ろしい犯罪のシーンが人々の記憶から離れることはないでしょう。それは、広島や長崎の原爆は、アメリカによる人類に対する犯罪として決して忘れられることはないのと同様です。このため、こうした悲劇は大量殺戮、人類に対する犯罪、広島の出来事の繰り返しと言われているのです。
現在もイギリスやカナダ、アメリカといった国々は、劣化ウランなどを含む禁止兵器をサウジアラビアなどの犯罪政権に供与し、それらはイエメンの人々に対して使用されています。こうした犯罪の隠された面やその背後にある要因について語られるのがいつになるのかは、全く分からないのです。