イマーム・アリーの殉教によせて
西暦661年に当たるイスラム暦40年ラマザーン月21日、イスラムの預言者ムハンマドの後継者で、預言者の一門でもあるシーア派初代イマーム・アリーが殉教しました。
その2日前、イマーム・アリーはイラクの町クーファにあるモスクでの朝の礼拝で、ひれ伏す姿勢をとっていた際に、イスラム史上初の分派とされるハワーレジ派の人物により、毒を塗った剣で頭を切りつけられ、負傷しました。その2日後、この偉人はその時の負傷がもとでこの世を去り、神の道においての殉教と大いなる救いという、かねてから望んでいた幸福を達成したのでした。
イマーム・アリーの殉教は、イスラムとイスラム教徒に対し、取り返しのつかない打撃をもたらしました。しかし、この偉人の生き方や統治方法、そして彼が残した名言の数々は、彼がこの世を去ってから1400年以上が経過した現在も、真理と正義を求める人々にとってのともし火のように光り輝いています。
イマーム・アリーの言行録として知られる書物ナフジョルバラーガ・『雄弁の道』は、その雄弁さや能弁さにおいてほかに例を見ない存在です。この書物に収められたイマーム・アリーの教訓的な文言は社会的、道徳的、神秘主義的な英知の大海原ともいえるものであり、その1つ1つが美徳に向かって開かれた窓のようなものといえます。
イマーム・アリーは、自らの子供たちへの遺言において、忠告という形で倫理上最も正確な問題を述べています。それではここで、その一部をご紹介する事にいたしましょう。
“わが一族、私の忠言を耳にする全ての諸君に対し、何事においても節制と規律を守るよう遺言する。そして、親のいない子供たちに目をかけ、隣人に対する善良な行動を心がけるがよい。また、コーランから遠ざかることなく、あなた方の宗教の基盤である礼拝を大切にしてもらいたい”
イマーム・アリーは、歴史を通して常に偉人たちから賞賛されてきた、ほかに例のない模範的な人物です。情熱的で数々の英雄伝にあふれる彼の若々しさは、若者にとっての模範であり、彼は常に洞察力を備え覚醒していました。この偉人は、次のように述べています。“神以外のものの僕になるなかれ。なぜなら、神はあなた方をほかのものに隷属しない自由な存在として創造されているからである”
イマーム・アリーは、真理にそった正しい道において、堅忍不抜さを貫くとともに、公明正大さをもってイスラムの正義という大義名分により、明白な旗を掲げ、政治家の模範となりました。これについて、ドイツのある詩人は、次のように語っています。
「イマーム・アリーは、我々にとっての愛すべき、また陶酔の対象としか表現のしようがない。それは、この人物が気高く偉大な若者だったからである。また、彼の心の奥底に秘められた良心は澄み切っており、情愛と善良さがみなぎり、自己献身と他人への奉仕という精神にあふれていた。イマーム・アリーは、野獣の王であるライオンよりも勇敢であったが、その勇敢さには慈しみや上品さ、同情心、優しさ、情愛が混ざっていた」
イマーム・アリーは、イスラム教徒の間でコーランの節の内容や、宗教に基づく統治、そして不信心者への徹底的な対抗と民衆に対する優しさを具現した人物でした。また、貧しい人々に自ら近づき、弱者を特別に配慮していました。イマーム・アリーから見て、物質的な富や権力により不当に偉ぶる人々は、その他の人々と全く変わりない存在だったのです。
イマーム・アリーが、為政者の地位に就いた後、次のような意見をする人がいました。それは、「あなた様は今や、全ての物事の頂点に立っておられます。あなた様が政務を執り行われるにあたって、ご自分以外の有力者たちを、政務の上層部から排除されるのは宜しくないかと思います」というものでした。しかし、これに対し、イマーム・アリーは次のように答えました。
“あなたは、このイマームアリーに対し、為政者の責任がかかっている人民への圧制という形で勝利を収めることを期待している。だが、アリーがそのような行為に手を出すことはない”
イマーム・アリーの見解や考え方にとって大切だったことは、純粋な信仰心と誠実さ、敬虔さ、神の道における努力、そして人間性とされています。彼は、その公明正大さにもかかわらず、為政者として君臨した期間は5年にも満たないものでした。
おそらく、イマーム・アリーの最も傑出した特長は、神に対する情熱や陶酔、そして神と恒常的に情愛に満ちた語らいを行っていたことだといえるでしょう。このことは、彼が唯一神の本質を認識し、その英知の奥深さを理解していたことによるものにほかなりません。イマーム・アリーは、次のように語っています。
“わが主なる神よ、我は処罰への恐れや天国行きへの欲望のためではなく、そなたが崇拝の対象としてふさわしいお方であられるがゆえに、そなたを崇めたのである”
イマーム・アリーにとって、ラマザーン月の重要な日課の1つは夜を徹しての祈祷をささげることでした。これについて、彼は次のように語っています。
“ラマザーン月には、祈祷や罪の赦しを求める祈りをたくさん行うがよい。それは、祈祷があなた方を災いや問題から遠ざけるとともに、罪の赦しを求める事であなた方の罪が抹殺されるからである”
このため、イマーム・アリーはシーア派教徒たちに対し、次のように述べています。
“毎晩、神の家に赴いて扉を叩き、神を賞賛するがよい。あなた方が中に入り、賓客となれるよう扉を開きにやってくるのは慈悲である”
イスラムの重要な教えの1つに、貧困対策と恵まれない人々への支援があり、この教えは非常に重視されています。その例として、コーラン第51章、ザーリヤート章、「まき散らすもの」第19節においては、イスラム教徒の財産の中に貧しい人々の特別な権利があるとされ、次のように述べられています。
“また、彼らの財産の中には、恵まれない人々や困窮者たちの明白な権利が存在する”
イマーム・アリーが死の床に就いており、数人の孤児たちが何日かに渡り空腹のまま過ごしていたとき、人々はその子供たちの日々の糧を用意していたのがアリー以外にいない、ということに気づきました。イマーム・アリーはラマザーン月には毎晩、そして特にコーランが下された日とされるガドルの夜に、人々に食事を与え、説教をしていたのです。これについて、ある伝承には次のように述べられています。
「イマーム・アリーは、ラマザーン月には常に人々に対し、その日の断食終了後の夕食に肉の入ったエフタル食を与えていたが、自分はその肉を食べなかった。そして、夕食を食べ終えると、今度は人々を相手に説教をしていた」
イマーム・アリーは、次のように述べています。
“私は、もし自分が望んだならば、自分のために新鮮なハチミツや小麦、絹織物を自分用の食物や衣服として調達できたはずだった。だが、アラビア半島のヒジャーズ地方に、ひとかけらのパンすら得られず、決して満腹するまで食事を取れない人々がいるのを尻目に、私が自分の心の奥底に潜む欲望に負けて、その強欲のなすままにおいしい食物を得るほうを選ぶのは、なんと悲しむべきことか”
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