光の彼方への旅立ち、ナムル章(15)
コーラン第27章 ナムル章 蟻 第76節~第81節
慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において
第76節
「明らかに、このコーランはイスラエルの民が対立する事柄の多くを、彼らのために明らかにする。」 (27:76)
إِنَّ هَذَا الْقُرْآَنَ يَقُصُّ عَلَى بَنِي إِسْرَائِيلَ أَكْثَرَ الَّذِي هُمْ فِيهِ يَخْتَلِفُونَ (76)
第77節
「本当にそれは、信仰する人々にとっての慈悲と導きの源である。」 (27:77)
وَإِنَّهُ لَهُدًى وَرَحْمَةٌ لِلْمُؤْمِنِينَ (77)
第78節
「まことに汝の主は、自分の判断によって彼らの間を調停するだろう。神はすべてを知り、全能であられる。」 (27:78)
إِنَّ رَبَّكَ يَقْضِي بَيْنَهُمْ بِحُكْمِهِ وَهُوَ الْعَزِيزُ الْعَلِيمُ (78)
第79節
「だから神に頼りなさい。汝は明らかな真理の上にいる」 (27:79)
فَتَوَكَّلْ عَلَى اللَّهِ إِنَّكَ عَلَى الْحَقِّ الْمُبِينِ (79)
前回の番組では、多神教徒たちが最後の審判を否定し、さまざまな口実を設けては、死人がよみがえることや、最後の審判で神から報奨や懲罰が与えられることを嘲笑っていた、とお話ししました。この4つの節は、アラビア半島で暮らし、コーランとイスラムを受け入れようとしなかったユダヤ教徒たちについて述べています。彼らはイーサー・マスィーフと、ユダヤ教の聖典に出てくる救世主を巡って意見を対立させていました。また、一部の宗教の戒律についても、異なる見解を有していました。そのためこの4つの節は、次のように語っています。「もし彼らがコーランを天啓の書として受け入れていたら、それらすべての対立は解消され、ユダヤ教とキリスト教で、ムーサーとイーサーの後に生じたあらゆる迷信は終結し、誤った考え方から離れた純粋な宗教が彼らのもとに残っていたことだろう」
この節は続けて、イスラムの預言者ムハンマドと敬虔な人々に向かって次のように語っています。「啓典の民に反対されても、神を頼りにし、神の無限の力と知識を頼りに、自らの道を歩み続けるがよい。覚えておきなさい。あなたたちは真理の上におり、真理はゆるぎない確かなものであり続ける」
第76節~第79節の教え
・コーランの恩恵のひとつは、思想的な深い対立を解消することです。コーランは、団結の源であり、イスラム教徒だけでなく、すべての啓典の民も、それを受け入れ、コーランの節に従うことで、対立を解消することができます。
・導きは、神の最大の恩恵です。神は慈悲によってそれを人類に与えています。
・神を頼ること、それは人間が成功するための条件の一つです。また、神に頼ることは、真理の道の上だけでのことで、偽りの道においては意味を見出しません。
第80節
「明らかに、汝には死人に言葉を届けることはできない。また耳の聞こえない者が背を向けているときに呼びかけることもできない。」 (27:80)
إِنَّكَ لَا تُسْمِعُ الْمَوْتَى وَلَا تُسْمِعُ الصُّمَّ الدُّعَاءَ إِذَا وَلَّوْا مُدْبِرِينَ (80)
第81節
「汝は盲目の人たちを迷いから導く者ではない。汝にできるのは、ただ、私たちの節を信じ、真理に服従する人々の耳に、自分の言葉を届けることだけである」 (27:81)
وَمَا أَنْتَ بِهَادِي الْعُمْيِ عَنْ ضَلَالَتِهِمْ إِنْ تُسْمِعُ إِلَّا مَنْ يُؤْمِنُ بِآَيَاتِنَا فَهُمْ مُسْلِمُونَ (81)
「コーランは明らかな真理である」とした前の節に続き、この2つの節は次のように語っています。「彼らがコーランに反対し、真理を受け入れないのは、彼らの心が盲目であるためであり、コーランが容認できないものであるためではない」
心をかたくなにし、偏った考え方や盲目的な模倣に陥っている人は、いかなる言葉の影響も受けない死人か、あるいは、闇雲に自分の道を進む、耳が聞こえない生きた人間と同じです。当然のことながら、耳が聞こえない人が後ろから声をかけられても、何も聞こえません。多くの不信心者たちは、目も見えず、耳も聞こえない人たちと同じであり、彼らは真理を理解する道を完全に封じ、真理を聞いたり見たりする機会を手放しています。
明らかに、コーランと預言者ムハンマドの導きを受けることができるのは、まず、真理に対して謙虚である人々、次に、コーランの節を信じる人々です。言い換えれば、コーランの導きを受けられるのは、真理を知る上で障害があっても、その真理の受け入れを妨げられない人です。この障害は、通常、人々の思想や精神によるものであり、彼らがそれまでの立場を保ち、先人たちの模倣や部族的な偏った考え方により、真理の言葉を聞こうとしないか、あるいは真理を聞いたとしても、誤った分析によって別の解釈を行ってしまうことになります。このように、問題なのは、神の預言者たちのメッセージそのものでも、それらが容認できないものであることでもなく、反対者の頑なな心や偏った考え方にあるのです。人間の心が死に、真理を受け入れようとしないのであれば、真理の言葉がその人の心に響くことはありません。それはまるで、球切れしたランプをコンセントにつなげるようなもので、そのランプが灯ることはありません。
第80節~第81節の教え
・コーランにおいて、生と死は、自然や物質的なものについても、また精神的なものについても言われています。コーランは、真理の言葉を聞かず、その影響を受けない人々を、たとえ表面的には生きていたとしても、死人と呼びます。反対に、コーランによれば、真理を受け入れ、その道に身をささげて殉教した人々は、生きた人々であり、たとえ目に見える形で生きた人々の間にいなくても、神から日々の糧を受け取ります。
・目や耳、理性を持っているだけでは十分ではありません。重要なのは、真理にひざまずく精神であり、それがなければ、人間は、自分が見たものや聞いたものさえも否定したり、あるいはそれらを誤って解釈することさえあります。眠っている人は音を聞けば目を覚ましますが、寝たふりをしている人は、どんなに呼ばれても答えることはありません。