7月 25, 2017 00:43 Asia/Tokyo
  • イスラムと健康
    イスラムと健康

イスラムは、健康を特に重視しており、イスラムの伝統や法学には健康に関する教示が数多く見られます。今回は、健康に関するイスラムの教えの一部についてご紹介することにいたしましょう。

健康とスポーツの間には、密接な関係が存在します。スポーツの最も重要な要素の1つは、健康の維持と増進につながることにあります。このため、人間の健康に害を及ぼしたり、或いはやり過ぎにより健康が損なわれるような場合、スポーツはイスラムや理性の観点から受け入れられません。

イスラムで注目されている原則の1つは、健康で力のある体を作ることです。これについて、イスラムの預言者ムハンマドは、次のように述べています。エ;“体が丈夫で体力のある信者は、体の弱い信者よりも優れ、より愛すべき存在である” さらに、イスラムでは衛生に留意すること、喜びに満ちた精神、生活における規律、そして精神の強化も注目されています。その一方で、健康を維持し、保健衛生を徹底させること、身体能力や思考力、防衛力の強化、喜び、成功の頂点を極めることは、スポーツや体育とは切り離せないものです。このため、スポーツにより自然に得られる効果が、イスラムの崇高な目的の1つだと言えます。

 

イスラムの聖典コーランは、最後の審判の日までの人生における全ての事柄の最高の見本であり、解決の道しるべと言えます。このため、人生の全ての側面において、しかも最初の段階から、神の下した人生の指南書であるコーランを参照し、自らの成長と発展においてこの天啓の書の教えを活用する必要があります。コーランは、人間を初めとする全ての存在物の創造主の言葉が収められた他に例のない偉大なる書物であり、精神力の強化に加えてまず体を動かすことや身体能力を養うことが大切であり、その次に学問を修めるべきであることが述べられています。

 神の全ての預言者や天使たちは、完成を極めた崇高な性質を有していましたが、宗教関係の資料によれば、預言者のムーサーは、強靭な肉体と体力を有していたとされています。このことは、コーラン第12章、「ユーソフ章」ヨセフ、第22節で次のように述べられています。

“彼が成年に達し、力をつけた時に、我々は英知と知識とをかれに授けた。このように、我々は正しい行いをする者に報いる” 

 

歴史的な史料や伝承によれば、建設的で理にかない、目的があり有益で健全な娯楽やスポーツは、イスラムの偉人や指導者たちの間で奨励されているのみならず、そうした活動の一部に彼らも積極的に参加していたとされています。イスラムの預言者は、次のように述べています。

“イスラムの教えを受け入れ、生活のニーズを満たせるだけの収入があり、強靭な体力を持つ者たちは、何と幸福なことか”

神の預言者は、体が丈夫であることを、イスラムの崇高な教えに従うことと共にすえ、それを幸福の源であるとしています。これは、イスラムにおいて体力の強化が重要な位置づけにあることを示しています。さらに、シーア派3代目イマーム・ホサインは次のように述べています。

“人生のあらゆる時期において、自らの身体の健康の維持に努めるがよい”

 

一般的に知られたスポーツには、ランニングやウォーキングがあります。これらは、医学的な研究において最も健康的で有益なスポーツとされており、この点について神の預言者は次のように述べています。

“人間にとって、神を思い起こすことのない物事は全て、中身がなく空虚な遊具に等しい。だが、馬の調教、歩くことや走ること、そして水泳は別である”

 

伝承によれば、イスラムでも水泳は愛好すべき好ましいスポーツとされ、その習得が強調されています。また、イスラムの預言者は水泳と弓術を自分の子どもに教えるべきだと語ったと言われています。

 さらに、乗馬や射撃も多くのイスラム教徒の関心を集めており、宗教学者や宗教の権威者も、この種のスポーツの試合や賭け事の実施を許可しています。

 またイスラムの偉人たちの伝承においても、乗馬と射撃の習得が強く奨励されており、イスラムの預言者は神の御前での最高の遊びは乗馬と射撃の試合であるとしています。

さらに、レスリングもイスラム的なスポーツとされ、長い歴史を有するとともに歴史的な文献にも登場します。一部の人々の間では、このスポーツは預言者アーダムの特技のひとつで、預言者一門の時代から残っていたとも言われています。

 

ここからは精神面での健康を手に入れるためのイスラムの教えについてご紹介し、精神性という言葉の包括的な概念について考えることにいたしましょう。

 

精神性という言葉は、人々の間で知られている言葉の1つですが、その正確な定義については意見が分かれています。一部の人々は、精神性を宗教と同じものとして捉え、また中には精神性は宗教とは正反対で、神を信じる人やそうでない人、それぞれの人の世界観や人生哲学により異なった意味を持つと考える人もいます。さらには、精神性が宗教を伴わなくなった場合、精神性の本当の意味が失われるとする人もいれば、精神性とは1つの個人的な経験であり、その形は人によって異なると見なす人もいます。それ以外にも数多くの解釈が存在します。

しかし、イスラムの見解では、宗教を持つことと精神性は分けることのできないものであり、精神性は宗教を持つことや神への服従により得られるものとされています。精神性を持たせるための最高の方法は、神を思い起こすことであり、イスラムでは精神性の全ての側面を発展させることをベースに、様々なプランが提示されています。人間は、精神性を模索する中で必ず宗教的な教えやプランを必要とするのみならず、宗教に頼ることが、日々必要になっていきます。

 

精神性の高い人間は、健康な体を維持するために、体の痛みを遠ざけようとする上に、精神面の健康を求めています。精神性を身につけ、人生に意義を持たせるための第1の条件は、生活における全ての行動を、1つに統一された好ましい目標にそって調整することです。イスラムでは、崇高なる神が全ての存在物や完全であることの源であり、人間が創造された目的は神に近づくことと見なされています。このため、人間の品行や活動の最終目的、そして可能な限り人間としての最高の地点を極めることは、神に近づくことだと言えます。ですから、意義のある人生における第1歩は、神を知ることなのです。

 

宗教的な文化における神を中心とした考え方は、言葉によるものと行動によるものとがあります。即ち、信心深い人間は日常生活において神を常に念頭に置いており、行動の選択や物事の判断の際に常に神の存在を忘れず、宗教的な教示や神の満足の是非を考えます。そのため、神の満足につながる行動を取り、その反対の行動を回避するのです。こうした人は、他人との付き合いにおいても、神の満足を考慮し、他人と協力し、責任を受け入れ、他人に親切にし、他人の善意に善をもって応えます。実際、精神性のある生活の基盤は、神を中心とした生活です。精神性のある人間は、常に自分の信ずるものを宗教的な行為や基本的な価値観、生活様式によって示すことに努め、自分の全ての行動において心から誠意を尽くすのです。

 

精神性を備えた人は、自分自身を知ることに努め、自らの欲求のうち違法で理にかなっていない欲求と戦います。これは、イスラムの文化では自己の内面との戦いとされているものです。宗教的な視点では、人間の最大の敵は自分の内面であり、これと戦うべきだとされています。人間の心の内面が人間と敵対することについて、イスラムの預言者は、あなたにとって最大の敵は、2つの側面の狭間に位置するあなた自身である、と述べています。このため、精神性を有する人は、自己の内面を見極めますが、自分の内面的な欲求との戦いやその見極めに当たってバランスを崩したり、自らの人間としての尊厳を失うことはないのです。

 

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