アル・バガラ章・雌牛(2)
-
聖典コーラン
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
前回は、コーラン第2章アル・バガラ章雌牛についてお話ししました。この章は、コーランで最も長い章で、286節あります。この章が下されたことにより、誕生したばかりのイスラム社会の一部の問題の解決策が明らかになり、イスラム教徒は、互いに、また他人とどのような関係を持てばよいのかを学びました。またこの章は、イスラム法の戒律だけでなく、結婚や離婚などの家族の問題、社会的な規定、先物取り引きや高利貸しの禁止などの経済的な規定、その他の問題についても述べています。
アーダムの創造の物語、そして、万物の霊長である人間に平伏すことをイブリース・悪魔が拒んだ物語は、アル・バガラ章の教訓に満ちたお話しです。この章は、包括的なテーマや教えを含んでいるため、神の預言者ムハンマドは、この章をコーランの章の中でも最も優れた章とし、そこを読めば、多くの恩恵が与えられると約束しています。コーランはこの章で、幾つかの創造の現象に触れ、唯一神信仰の重要性と役割を提起し、幾つかの興味深い例を挙げ、最後の審判の日、人間がどのように蘇らされるかを明らかにしています。例えば、預言者イブラヒームによって殺された鳥たちが蘇る話や預言者オザイルの物語などです。
預言者オザイルの物語は、非常に美しいお話です。これによれば、預言者オザイルは、ある旅に出た際、ロバに乗り、食べ物や飲み物を持っていました。彼は、ある村を通過したとき、恐ろしい形で混乱し、破壊され、住民の骨や腐った死体が転がっているのを目にしました。この恐ろしい光景により、預言者オザイルは驚いて考えました。「このような死人たちを、神はどのようにしてよみがえらせるのか?」 そのとき、神は最後の審判で死人を蘇らせる問題を明らかにするために、預言者オザイルの命を奪いました。それから100年後に、神は彼を生き返らせました。預言者オザイルは、その荒野に何年くらいいたと思うかと神に尋ねられたとき、ほんのわずかな期間だろうと考え、ためらうことなく言いました。「1日か、それ以下だろう」 そのとき、彼はこのように言われました。「そうではない。あなたはここに100年もいた。今、自分の持っていた飲み物と食べ物を見るがよい。その間にも、ここには何の変化もなかった。だが、あなたの死から100年が過ぎている。また、自分のロバを見るがよい。ロバの遺体は腐り、ぼろぼろになっている。我々はあなたを人々のための教訓とした。さあ、我々がロバの散り散りになった部分や骨を集め、それを肉で覆うのかを見るがよい」 こうして預言者オザイルは、自分の運命と、そのような驚くべき場面を目にし、神を称賛しました。そして神の無限の力を認め、こう言いました。「私は知っている。神は全能であると」
アルバガラ章の一部の節は、歴史的な問題を提起しており、ユダヤ人とイスラエルの民の運命、彼らの立場や行動について触れています。例えば、イスラエルの民の一部が、預言者ムーサーに対して行った圧制や嫌がらせ、口実探しについて述べています。興味深いのは、現在も、シオニストとして知られる過激的なユダヤ人が、預言者ムーサーの時代のユダヤ人の一団と同じように、契約違反、優越主義、侵略といった特長を持っていることです。この章は、この民の行動や考え方の特徴の一部をよく描いています。
明らかに、預言者に下されたコーランは、至高なる真理に基づいた神からの啓示です。この章で、神はコーランの偉大さと奇跡について述べ、その節を否定する者に対し、それと同じものをもたらすことができるのなら、もたらしてみなさい、と言っています。歴史の中で、コーランと同じような章をもたらそうとした人々がいました。しかし、それらは決して、叶うことはありませんでした。預言者が現れてから数百年が経過した現在、この神の啓示は、わずかな変更も加えられず、その新鮮さを全く失うことなく、人類に委ねられています。
コーランは、その英知に溢れる教えの中で、人間の行動の結果は、善であれ悪であれ、自分自身に返るという重要な点を指摘しています。さらに、寛容な神がこの書物の中で定めた事柄は、人間のためを思ってのことであり、間違いなく、人間にはその肯定的な影響が及ぶとしています。コーラン第2章アル・バガラ章雌牛、第183節では、断食は人間にとって、多くの肉体的、精神的な効果があるとしています。とはいえ、この節は、その最大の効果として、欲望をコントロールすることを挙げています。この節には、次のようにあります。
「信仰を寄せた人々よ! あなた方には断食が定められている。あなた方以前にいた人々にも定められていた、敬虔さを保てるように」
この節は続けて、断食を行う期間を定め、病気の人や断食に耐える力のない人は断食を行う必要はないとしています。第185節は、ラマザーン・断食月の重要性の理由は、コーランがこの月に預言者に下されたことにあるとしています。第186節で、神は優しい言葉で僕たちに愛情を注ぎ、彼らに希望と心の安らぎを与え、次のように語っています。
「また、私の僕たちが汝に私について尋ねたとき、[言え、]私は近いと。私に祈る人々の祈りに私は答える。そこで、彼らは、道を見出すために、私の誘いを受け入れるべきだ。恐らく彼らは、導かれるであろう」
聖典コーランで最も優れた節のひとつは、第255節です。この節は、天の玉座を意味する、「アーヤトル・コルスィー」の節を呼ばれています。言い伝えでは、この節はコーランの節の頂点であり、それを読み上げ、この節に助けを求めることが勧められているということです。

「唯一の神以外に崇拝の対象はなく、神は永久に自存する。神が軽い眠りや熟睡に捕らえられることはない。天にあるもの、地にあるものは、神のものである。神の許可なく、誰も神の御前で調停することはできない。神は、僕たちの前と後ろにあるものを知る。また、誰も神の知識について知ることはない。神が望む量を除いては。神の玉座は、天と地を覆っており、その保護に神が疲弊することはない。神は偉大で至高なる方であられる」
コーラン解釈者たちによれば、この節の重要性は、神の唯一性、天と地に対する神の絶対的な支配など、価値のある深い内容が述べられていることにあります。神は創造世界の源であり、すべてのものは神に帰ります。そのため、創造世界のすべては神に依存しているのです。神は自存しています。この節では、宗教を選ぶ際の人間の自由が強調されており、宗教に強制は存在しないこと、宗教の強制的な受け入れは認められないことという重要な点が述べられています。
ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。
https://twitter.com/parstodayj