コーラン、第13章ラアド章雷電(1)
今回から、コーラン第13章ラアド章雷電を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
ラアド章はメッカで啓示され、全部で43節あります。
以前にもお話したように、メッカで啓示された章は、イスラムの預言者ムハンマドの導きの初期、多神教徒たちと激しく対立していた頃に下されたものです。そのため、多くが、唯一神信仰へのいざない、多神教信仰との闘争、復活の証明といった、信条的な問題について語っています。一方、メディナで啓示された章は、イスラムが広まり、イスラム統治が確立された後に下されたため、人類社会に必要な事柄に基づいて、社会体制に関する問題や戒律が述べられています。
ラアド章は、コーランの真正について触れた後、唯一神信仰と、唯一の神のしるしである創造の神秘について述べ、その後で、復活の問題を提起し、「人間の運命を変えるには、まず彼ら自身が始めなければならない」としています。この章は、人々に、約束を守ること、親戚づきあいをすること、耐え忍ぶこと、そして施しをすることを呼びかけ、人々を歴史の奥深くへといざない、反抗的な民のたどった運命について述べています。この章は終わりに、衝撃的な表現によって不信心者に警告を与えています。
ラアド章の第2節には次のようにあります。
「神こそ、あなた方に見える柱をなくして、天をかかげた方である。それから天を支配し、太陽と月を従わせた。それぞれが定められた時まで運行する。神は創造世界の管理を行い、自らのしるしを明らかに説く。それはあなた方に、[最後の審判で]主に会うことを確信させるためである」
創造世界は、神の手による傑作であり、知識は私たちを創造世界の神秘へと導いてくれます。この節は、コーランが下された当時には、誰も知る者などいなかった、創造の秩序と自然の法則のひとつを明らかにしています。当時、古代ギリシャの天文学者プトレマイオスは、地球は動いておらず、世界の中心に鎮座し、その周りを太陽などの天体が動いているという説を唱えていました。しかし、その数百年後に、人類は、天体はそれぞれが決められた軌道に沿って動いており、周回する天体は、中心の天体からの重力のみを受けているという結論に達しました。この重力は、目に見えない柱のようにして、天体同士がぶつからないように保っています。この節は次のように語っています。「神は、柱のない天を掲げる方であり、この柱はあなたたちには見ることができない」 この目には見えない柱が指しているのが、重力です。
明らかに、創造の驚異を明らかにしている節は、実際、世界の創造主の偉大さと管理について述べています。ニュートンは重力を発見し、より重要な真実を認め、次のように語りました。「世界の驚異的な秩序を説明するためには、重力だけでは十分ではない。全知全能の源が、それらの動きの速度や質量、距離をはかり、それぞれを定められた軌道に置く存在があるはずである。それは神である」
神は、柱のない天を創造した後、創造世界を支配し、太陽と月を征服し、どちらも、定められたときまで、その動きを続けます。ラアド章の第3節には次のようにあります。
「神こそ、大地を広げ、そこに山や小川を置いた方である。それぞれの果実にオスとメスを作った。また夜によって昼を覆う。まことにその中には、考える人たちへのしるしがある」
神は、人間が生活し植物や動物が育つように大地を広げ、急で危険な坂や穴を、山を侵食したり、岩を土に変えたりすることによって埋め、そこに人間が住めるよう、平らな土地にしました。当初は地面に凹凸があり、とても地上で暮らせるような状態ではありませんでした。その後、山が現れたことに触れています。山はコーランの別の節でも、地上における釘になぞらえられています。それはおそらく、山々がどっしりと立っており、地面をしっかりと覆い、内側や外側からの圧力を退け、それによって、地震や恒常的な揺れを抑え、大地に平穏を与えているためでしょう。
この節はその後、大地を流れる水や川に触れています。山によって大地に水が行き渡るシステムは、非常に興味深いものです。地球上の山の多くは、寒い季節になると、頂上や峡谷に雪を積もらせます。その雪がしだいに解けて、高い場所から低い場所へと流れていきます。このようにして、一年を通して、自然な形で、大地が潤されているのです。その後、この節は、土と水、太陽の光によってもたらされる食料や果実に触れ、地上における全ての果実は、オスとメスでできているとしています。
昔から、人々は、ナツメヤシの木など、一部の植物において、メスとオスの存在を突き止めていました。しかし、その法則が、ほぼ全ての植物にあてはまることを知る者はいませんでした。その後、18世紀半ばに、それがほぼ全ての植物にあてはまる法則であること、植物も動物と同じように、オスとメスの受精によって果実を実らせることが解明されました。しかし、コーランは、その1100年も前に、すでにその事実を明らかにしていました。これは、コーランの科学的な奇跡の一つとなっています。
ラアド章第4節には次のようにあります。
「また、地上には互いに隣接した区画があり、様々な種類のブドウの園、耕作地、ナツメヤシの木、その他、同じ水から灌漑される。また我々は、一部の樹木の果実を、他の樹木の果実よりも優れたものとする。まことにその中には、深く考える人たちにとってのしるしがある」
地上には、ブドウや穀物、ナツメヤシなどがなる木や庭園があります。これらの木は、幹が一つである場合も、また複数ある場合もあります。その一つ一つに、別の果実がなる場合さえあります。この言葉は、別々の果物を実らせる植物の接ぎ木の能力を指している可能性があります。土も根や茎も同じなのに、様々な種類の異なる果実をつけるのです。そして、それら全ては、同じ水によって潤されています。同じ物質から、完全に異なるものが生産されるとは、木の枝は、なんという神秘に満ちた実験室なのでしょうか。多くのコーラン解釈者は、ラアド章が、一部の自然現象に触れていることから、この章を、コーランの科学的な奇跡のひとつと見なすべきだとしています。
ラアド章第11節には次のようにあります。
「それぞれの人には、前後から天使たちがついており、神の命による[出来事から]守っている。まことに神は、いかなる民の運命も、彼ら自身が変えない限り、変えることはない」
神は人間のために天使をつけており、その天使は四方から、人間が危険な出来事にあわないように守っています。このようにして、天使たちは、昼と夜に交互に人間のもとにやってきて、人間を守ってくれます。人間は、人生において、様々な災難や危険に晒されています。病気や事故、天と地を荒らす危険、様々な出来事が、人間を取り囲んでいます。特に、まだ知識の少ない幼い子供は、常に危険と隣り合わせです。私たちは普段の生活においても、時に、そのような力のしるしを目にしたり、その存在をはっきりと感じ取ることがあります。その力は、盾のように、危険な出来事から私たちを守っています。イスラムの偉人たちも、そのことを強調しています。例えば、シーア派6代目イマーム、サーデグは、次のように語っています。「全ての僕には、2人の天使がいて、その人を守ってくれている。だが、神の絶対的な命が下ったとき、その人は出来事に襲われる」
その一方で、この守護が無条件のもので、もし人間が、自らを危険に晒し、あらゆる違反を行ったとしても、神と天使が守ってくれるなどと考えるべきではありません。明らかに、ある民や部族に神の懲罰の命が下ったとき、その守護者たちは離れていき、その民は、出来事に巻き込まれることになります。
「神は、いかなる民の運命も、彼ら自身が変えない限り、変えることはない」という言葉は、一般的な決まりを述べています。この決まりは、社会の出来事に関するイスラムの特別な見方を説明しており、あらゆる民族や部族に定められている事柄は、何よりも、また誰よりも、彼ら自身の手の中にあり、それぞれの民の幸不幸における変化は、第一に、彼ら自身によるものだということを語っています。神の恩恵も懲罰も、何の前触れやきっかけもなくして、その民に訪れることはなく、神から恩恵を得るにふさわしいか、それとも懲罰が下るにふさわしいかは、それぞれの民の意思や、彼らの内面の変化によって決定されます。言い換えれば、このようなコーランの原則に従い、あらゆる外面的な変化は、その民の内面的な変化によるものであり、成功するか、失敗するかは、そこに端を発しているのです。