コーラン第37章アッ・サーファート章整列者(2)
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聖典コーラン
今回も前回に引き続き、コーラン第37章アッ・サーファート章整列者を見ていきましょう。この章は続けて、神の偉大な預言者たちの物語を語っています。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アッ・サーファート章で注目に値するのは、神の純粋な僕たちが5回、強調されていることです。これは、欲望との戦い、信仰や神を知ることにおいて成功し、神から選ばれて清らかな存在となった預言者たちの地位の偉大さを示しています。この章で、その生涯が述べられている預言者たちは皆、預言者としての地位と信仰の深さによって神の寵愛を受けており、それぞれの部分の終わりで、神は彼らに平安あれという挨拶を送っています。最初は預言者ヌーフの物語で始まります。

第75節から78節を見てみましょう。
「また、ヌーフは我々を呼んだ。[我々も彼の祈りをかなえた。]我々は最も優れた祈りの実現者である。我々は彼とその一門を大きな悲しみから救い、その子孫を[地上に]残された者たちとした。また未来の人々のために彼の名声を残した」
預言者ヌーフは、自らの民から多くの嫌がらせを受けました。ヌーフが人々に、いくら唯一神の信仰を呼びかけても、人々は彼を嘲笑し、悩ませました。ヌーフはこのような彼らの侮辱的な態度に耐え続けましたが、とうとう彼の民は誰一人として信仰を寄せないことを悟りました。そのとき、彼らの救済を神に祈りました。ここでコーランは、民を導くことへの希望を失ったヌーフの祈りに触れ、このように語っています。「我々は彼の祈りをかなえ、彼とその一族を大きな悲しみから救った。そう、神は、後の共同体の間にヌーフの名声を残し、彼が忍耐強く寛容で優しい預言者として記憶されるようにしたのです。アッ・サーファート章の第79節には次のようにあります。
「世界の人々の中でヌーフに平安あれ」
神から平安を送られることほど、誇り高いことがあるでしょうか。それは世界の人々の間に残り、最後の審判の日まで広がっていきます。興味深いことに、これほど偉大な平安が誰かに送られる例は、コーランの中でほとんど見られません。
アッ・サーファート章の第83節から113節までは、神の預言者イブラヒームの生涯のうち、注目に値する部分が述べられています。
「[イブラヒームが]健全で清らかな心を持って主のもとにやって来たとき[を想い起こしなさい]」
「健全な心」とは、あらゆる道徳的な病、信条における逸脱、多神教信仰、堕落に穢れていない、清らかな魂を言います。コーランは、人間が最後の審判の日に救われるための唯一の要素は、健全な心であるとし、第26章シュアラー章詩人、第88節と89節で次のように語っています。
「健全な心で神の御前に立つ人を除いて、財産も子孫も、人間の状態の役には立たない日」
預言者イブラヒームは、健全な心と強い決意により、偶像崇拝に対抗する使命を得ました。歴史には次のようにあります。バビロニア帝国の偶像崇拝者たちは、毎年、特別な祝祭の儀式を行っていました。彼らは食事を用意し、祝福されるために、それらを偶像が置かれた場所に置いていました。それから町を出て、1日の終わりに町に戻り、祈祷と食事のために偶像が置かれた場所に来ていました。預言者イブラヒームは、偶像崇拝者が町を離れる日こそ、偶像を破壊し、彼らの眠った理性を揺り起こし、偶像を崇拝しても意味がないことを彼らに分からせるためのいい機会だと考えました。そこで、この儀式に招待された夜、預言者イブラヒームは、星を見つめ、「私は病気です」と言い、そのために儀式には参加できないことを告げました。こうして人々は、儀式を行うために町を出て行きました。
こうして預言者イブラヒームは、町に一人で留まり、しばらく前から待ち望んでいた瞬間が訪れました。たった一人で偶像との戦いに挑み、偶像崇拝者を怠惰の眠りから目覚めさせなければならなかったのです。コーランによれば、預言者イブラヒームは、偶像崇拝者の神のもとに行くと、それらを一瞥し、その周りにあった食事の器を投げ落とし、嘲笑してこう言ったとあります。「これらの食事を食べないのか?なぜ何も言わないのか?」 それから斧を手にして右手でそれらの上に振り落としました。こうして偶像が置かれた場所は、無残な廃墟となりました。
偶像崇拝者たちが町に戻って来ました。彼らは驚くべき光景を目にしました。しばらくの間、ただそれを見つめていました。それから大きな声を上げました。「一体誰が、こんなことをしたのだ?」 そのとき彼らは、唯一神を崇拝する若者が町にいて、偶像を嘲笑していたことを思い出しました。そこで、その若者、イブラヒームのもとに行き、偶像が誰によって壊されたのか、説明してほしいと言いました。アッ・サーファート章の第95節と96節では、彼らへのイブラヒームの論理的な回答が述べられています。「あなたたちは、自分の手で彫ったものを崇拝するのか? 神があなたたちと、あなたたちが創るものを創造したというのに。しかし彼らは、力に頼って、彼のために薪の山を作り、彼を火獄の中に放り投げると言った。彼らはイブラヒームを滅ぼすために綿密な計画を立てていたが、我々が彼らを卑しく負ける者とした。神の命により、イブラヒームの炎は冷たくなり、彼はこの悲劇を無事に逃れた」
アッ・サーファート章の第114節から122節までは、預言者ムーサーとハールーンへの神の恩恵が述べられています。その後、預言者エルヤースの運命を要約して述べています。エルヤースは、神の預言者の一人で、その民は偶像を崇拝していました。エルヤースは、自分の民に向かってこのように語りました。「あなたたちは偶像を求め、最高の創造主を手放すのか?」
エルヤースは、人々にそのような醜い行いをやめるよう言い、彼らに、世界の唯一の創造主である神への信仰を呼びかけました。預言者エルヤースは、偶像崇拝の民を非難し、言いました。「あなたたちと、あなたたちの祖先の主である神を手放すのか?」 しかし、彼らは、この神の預言者の明らかな導きや忠告に耳を傾けず、彼を否定しました。
アッ・サーファート章は、ルートの民の出来事に簡単に触れた後、第139節から148節で、預言者ユーヌスの話を取り上げています。預言者ユーヌスも、他の預言者たちと同じように、唯一神信仰への呼びかけと偶像崇拝との闘争から導きを始め、その後に社会の堕落との戦いに立ち上がりました。彼は常に、優しい父親のように、その迷った民に忠告を与えていましたが、わずかな数の人々を除き、彼に信仰を寄せる者はいませんでした。預言者ユーヌスは、その民を導くことへの希望を失い、彼らを呪いました。責め苦の期日が近づいたとき、ユーヌスは腹を立てたまま、彼らのもとを去り、海岸にたどり着きました。そこで人や荷物を満載した船を見つけ、自分も乗船しました。すると突然、船の前に大きな魚が現われ、口を開けました。船に乗っていた人々は、客の一人を魚に指し出す方がいいと言いました。彼らはくじ引きをし、ユーヌスがくじを当てました。くじ引きは3回繰り返されましたが、3回とも、ユーヌスの名前が出ました。そこでユーヌスは海に投げ落とされ、魚に飲み込まれてしまいました。
ユーヌスは神の預言者でした。そのため、忍耐を示し、最後の瞬間まで、民のもとに留まっていれば、もしかしたら彼らは目覚めていたかもしれませんでした。いずれにせよ、ユーヌスは、このような運命に陥ったとき、すぐに、自分が過ちを犯したことに気づきました。魚の腹の暗闇の中で、ユーヌスは全身で神に祈り、赦しを求めました。アッ・サーファート章の第143節と144節には次のようにあります。エ「もし彼が神を讃える人々の一人ではなかったら、間違いなく、最後の審判の日まで魚の腹の中に留まっていただろう」
預言者ユーヌスは、神を讃えたために、神の赦しを得ました。大きな魚は、草もない海のほとりでユーヌスを外に吐き出しました。コーランは次のように語っています。「我々は彼を、乾いた大地に落とした。病気で無力なユーヌスは、魚の腹の中から解放された」 ここで再び、彼は神の恩恵に授かります。コーランはこのように語っています。「我々はウリの潅木を育て、その広い葉の影で彼が休めるようにした」
一方で、ユーヌスが怒りを抱きながら民のもとを去り、神の怒りの兆候が人々に明らかにされたとき、彼らは我に返りました。そして自分たちの中にいた学者のもとに行き、解決策を見出そうとしました。この学者の指導により、彼らは集団で砂漠に行き、涙を流し、心から自分たちの罪を悔いました。そのとき、責め苦の幕が外され、罪を悔い改めた敬虔な人間の集団は、神の恩恵によって救いを得ました。
預言者ユーヌスは、この出来事の後、自分の民のもとに戻りました。そして、自分が去った頃には偶像崇拝者だった人々が、今は唯一神を信仰しているのを目にしました。このような人々の変化に、ユーヌスは心から驚きました。人々は歴史の中で、ヌーフ、イブラヒーム、ムーサー、ルートの民と同じように、痛ましく辛い結末を迎えることもできれば、ユーヌスの民のように、良い結末を迎えることもできます。これらの出来事は、罪を犯し、責め苦を受けるべき民が、どのようにして、最後の瞬間に自分たちの歴史を変え、慈悲に溢れた神のもとに返り、救われるのかを示しています。(了)