May 31, 2018 22:40 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回も前回に引き続き、最後の審判と、天国に行く人、地獄に落ちる人に関して述べた、コーラン第39章アッ・ズマル章集団を見ていくことにいたしましょう。

 

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・ズマル章集団では、最後の審判が行われ、来世で人間が生き返ることを、疑いのない事柄として挙げ、それは決して破られない神からの約束だとしています。復活は、イスラム教の原則です。コーランは、さまざまな節で復活を強調し、その日のさまざまなしるしを述べ、自分の行いに気をつけ、信仰を持ち、正しい行いをし、敬虔さを保つようにと人々に警告しています。とはいえ、世界の終わりに何が起こるか、すべてのことが明らかにされているわけではありません。コーランや伝承で述べられている事柄は、その出来事のほんの一部です。いずれにせよ、この世の終わりに重要な出来事が起こることは確かです。この世界の秩序も乱れ、新たな世界が生まれます。そのとき、復活が開始されるのです。

 

 

コーランは、この章をはじめとする数々の節の中で、最後の審判の一部のしるしに触れています。アッ・ズマル章の第68節を見てみましょう。

 

 

「ラッパが吹かれるとき、神がお望になられる者を除き、天にあるもの、地にあるものは皆死ぬ。その後、再びそれが吹かれると、突然彼らは立ち上がり、[周りを]見回す」

 

 

ラッパの音は、最後の審判のしるしの一つです。この節にある「ナフ」とう単語は、「膨らませる、吹く」という意味であり、「スール」という単語はラッパを指します。昔、軍隊や群れを動かしたり停止させたりするのに、ラッパが吹かれていました。しかし、コーランにあるこの「ラッパを吹く」という表現は、最後の審判で同時に起こる突然の出来事を指します。最後の審判の前に、恐ろしい音がすべての人の耳に届きます。その音によって、すべての生き物は死んでしまいます。惑星の秩序は乱れ、天と地に大きな変化が起こり、太陽や月、星が全て、光を失って冷たくなります。

 

 

この節や他の説からも分かるように、世界の終わりと復活の始まりの際には、突然、2つの重要な出来事が起こります。一つは、大きな音によってすべての生き物が死ぬことです。そしてもう一つは、その後しばらくして、再び大きな音によってすべてのものが生き返ることです。それが復活の始まりになります。

 

 

最初の音は、突然、起こります。多くの人が商売をしたり、財産を巡って争っていたりするときに起こります。そしてそれが起こった後、全員がすぐに死にます。そして二度目の音も突然、起こります。

 

 

 

アッ・ズマル章の第69節を見てみましょう。

 

「[その日、]大地は主の光で照らされ、行いの書簡が置かれて、預言者や証言者が連れてこられる。そして彼らの間に正当な裁きが下る。彼らは決して圧制を受けない」

 

 

イランのコーラン解釈者タバタバーイー師は、次のように記しています。「大地が主の光で照らされる、というのは、最後の審判の特徴を示している。幕や覆いが取り払われ、人間の善悪の行い、服従と反抗、真理と偽りなど、やさまざまなものの真実が明らかにされる」

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イランのコーラン解釈者タバタバーイー師

 

その後、その日、人々の行いの書簡が用意され、それに基づいた清算が行われます。人間の大小のすべての行いはそこに集められています。そのような状態で、神の預言者や証言者たちが集められます。預言者は、自分の使命を果たし、罪を犯した人に語りかけるために呼ばれます。証言者もまた、その公正な裁判で証言をするために呼ばれます。

 

コーランの節が強調しているのは、その日、人々の間が公正に裁かれ、誰にも圧制は加えられない、という点です。神が判決を下し、預言者と公正な証言者が参加する裁判では、明らかに正当な判決が下され、誰もが自分の行った事柄に見合った見返りを受けるのです。

 

アッ・ズマル章の第71節から先は、2つのグループの人間の、最後の審判での運命が描かれています。まずは地獄に入る人々の結末に触れています。

 

「不信心者となった人々は、集団になって地獄へと終われる。そしてそこに着くと、地獄の扉が開かれ、その門番たちは言う。『あなたたちの中から、主の節を読み上げ、あなたたちにこの日の訪れを畏れさせる使徒は来なかったのか?』 彼らは言う。『はい、[確かに使徒は来ました。でも私たちは耳を傾けなかったのです。]そして不信心者への責め苦の命が明らかにされました』」

 

この状態で、彼らはこのように言われます。「地獄の扉から入り、そこに永遠に留まりなさい」高慢な者たちの居場所のなんと悪いことでしょうか。責め苦の天使たちは、地獄に落ちる人々を、その扉の前に連れて行く使命を負っています。彼らは地獄に着くと、その扉が開かれます。つまり、彼らが入る前には地獄の扉は閉ざされています。それはちょうど、囚人が近づくと、突然、開かれる刑務所の扉と同じです。地獄に落ちる人々は、何よりもまず、その地獄の門番から非難の嵐を浴びます。彼らはこのように言われます。「あなたたちのために主の節を読み上げ、あなたたちにこの日が来ることを警告する預言者たちが、あなたたちの中から現れなかったか? それなのに、どうしてあなたたちは、このような暗い日を迎えることになったのだ? 」 そこで地獄に落ちるの人々は、預言者を否定し、神の節を否定する道を選んだことを告白します。彼らには、これ以上の運命を望むことはできません。

 

次の節は、敬虔な人々がどのようにして天国に行くかを述べ、まず、敬虔な人間は集団になって楽園に連れて行かれるとしています。彼らが楽園に着くと、その扉はあらかじめ開かれています。そのとき、慈悲深い天使たちである門番が彼らに言います。「あなた方に平安あれ。ようこそ。楽園の中に入り、そこに永遠に留まりなさい」

 

興味深いのは、天国に行く人々については、扉があらかじめ開かれていると言われていることです。それは、彼らへの特別な敬意を示しています。自分の家の扉を、客人が入る前に開けておくのと同じです。また注目すべきなのは、地獄に入る人々についても、また天国に行く人々についても、永遠という表現が使われていることです。それによって、地獄に落ちる人々には、救われる道は存在しないこと、また天国に行く人々には、神の恩恵がなくなる心配はないということを伝えようとしています。

 

アッ・ズマル章の第74節を見てみましょう。

 

「彼らは言う。『賞賛は神のみのものである。神は私たちへの約束を果たし、大地を私たちに継がせた。天国のどこでも、私たちは望む場所を得る。よい行いをする人々の報奨はなんとすばらしいものであることか』」

 

アッ・ズマル章の最後の節となる第75節は、預言者ムハンマドにこのように語りかけています。「その日、汝は王座を囲み、主を称える天使たちを見る。彼らの間は公正に裁かれ、賞賛は、世界の創造主である神のみのものである、と言われる」(了)