コーラン第43章アッ・ズフルフ章金飾り
-
聖典コーラン
今回は、コーラン第43章アッ・ズフルフ章金飾りを見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アッ・ズフルフ章は第45節を除き、メッカで下されました。アッ・ズフルフとは、金や飾りを意味し、この章の第35節から取られました。この章は全部で89節あります。
アッ・ズフルフ章では、コーランと預言者の使命の重要性、預言者に反対する人々の反応、唯一神信仰の一部の根拠、多神教信仰との戦いと神に対する冒涜の否定、以前の預言者や民の辿った運命、復活、敬虔な人々への報奨と不信心者の結末、誤った迷信的な価値観の否定といった事柄について述べられています。
アッ・ズフルフ章の第1節から4節を見てみましょう。
「ハーム・ミーム。明瞭な書物に誓って。まことに我々は、それをアラビア語のコーランとした。恐らくあなた方は深く考えるであろう。まことにそれは、我々のもとで母となる書物の中にあり、英知に溢れた気高いものである」
これらの節は、明らかな真理、明白な内容、確かな導きである書物に誓いを立てています。この書物はアラビア語で下されました。アラビア語は、真理を述べるのに世界で最も幅の広い言語です。言語学者は、「アラビア語」という言葉には、明瞭なという意味があるとしています。つまり、神はコーランを最も明瞭な言葉で述べ、その言葉や文章から、真理が十分に明らかになるようにしています。
母となる書物、とは、あらゆる天啓の書の基本となるものであることを意味します。これは神のもとにある、その知識の書物です。世界のすべての真理、未来と過去の出来事、天啓の書物がそこに含まれており、神が明らかにしようとする事柄以外、誰もそこに入る道はありません。コーランは神の無限の知識から生まれたものであり、その原則や真理は、神の許にある母となる書物の中にあります。その説明では、この書物は確かで英知に溢れた気高いものであるとされています。
アッ・ズフルフ章で述べられている重要な事柄の一つは、無知で迷信的な文化と闘う、ということです。コーランは、唯一神信仰の根拠について述べた後、イスラムの預言者ムハンマドをなぐさめ、これまでの預言者たちの中で、人々の嘲笑にあわなかった者はいないとしています。その後、無知な文化の例を挙げ、それを非難しています。
偶像崇拝者たちは、誤った期待を持ち、コーランを受け入れないために、様々な口実を設けていました。そうした口実の一つは、なぜコーランが、メッカやターイフの権力や富を持った人物に下されなかったのかというものでした。第31節によれば、彼らが驚いているのは、なぜコーランが、裕福で著名な人物に下されず、反対に、財産も保護者も持たないムハンマドという人物に下されたのか、ということでした。
実際、無知な価値観により、人々は真理をさかさまに見ていました。しかし、神の導きを伝える人間は、見識的で決意を持ち、勇敢で正義を追求し、特に虐げられた恵まれない人々の痛みを理解している人物でなければなりません。これらこそ、神の啓示を伝える使命を持つ人間に必要な価値観であって、美しい服、豪華な宮殿、華やかな飾りといったものではないのです。
コーランは、多神教徒の迷信的で根拠のない考え方を、きっぱりと否定し、アッ・ズフルフ章の第32節で、このように指摘しています。
「我々は彼らの生活の糧を、現世で彼らの間に分配した。一部の人を他の人よりも優れたものとし、彼らが互いを支配し、互いに奉仕するようにした。なぜなら人類の生活は集団のものであり、この生活の管理は、相互の協力や奉仕によってのみ、可能であるからである。そのため、表面的な違いに騙されてはならず、それを人間の価値観の基準にしてはならない」
コーランは、物質的な華やかさや富を価値のないものだとし、第33節と34節で次のように語っています。「不信心者が物質的な恩恵に授かったからといって、すべての人間が不信心に走り、共同体が迷い陥ることにはならない。我々は、慈悲深い神を信じない人々のために、銀の天井がある家を据え、上に昇るはしごや数多くの扉、よりかかるための台座を設けた」
アッ・ズフルフ章の第35節には、次のようにあります。
「また、数々の装飾品を与えた。だがそれらは皆、現世の生活のためのものに過ぎない。来世は汝の主の許にあり、敬虔な人々のためのものである」
実際、コーランは、もし現世のものを求める愚かな人々が不信心に走ることがなければ、神は物質的な恩恵を不信心者だけに授け、すべての人に、これらは人間の人格を図る基準ではないことを理解させようとしていたという点を指摘しています。言い換えれば、不信心者や圧制者が物質的な恩恵に授かっているからといって、それが彼らが重要な人物であるという根拠にはなりません。また敬虔な人間がそれらに恵まれていなくても同様です。神は、物質的な恩恵を、合理的に、生きるための手段として利用するよう勧めています。そのため、敬虔な人間は、表面的な華やかさや金銀について考える代わりに、来世のことを考えます。神の預言者たちも、このような空虚な価値観を否定し、人間の真の価値を、知識、敬虔さ清らかさに置いています。
アッ・ズフルフ章の第36節は、物質主義に溺れ、現世に執着する結果について触れています。それは、慈悲深い神に背を向け、悪魔に従うことです。コーランには次のようにあります。
「また、誰でも慈悲深い神の記憶に背を向ける者には悪魔を据える。そのため、その人は悪魔の仲間となる」
アッ・ズフルフ章の第43節は、再びコーランに触れ、預言者に対し、次のように語っています。「汝に啓示したものをしっかりとつかみなさい。汝はその正しい道の上にいる、汝の書物と計画にはいかなる逸脱もない。彼らの一団が受け入れないからといって、汝の正当性が否定されるわけではない。この汝に啓示されたコーランは、汝と汝の民に思い起こさせるためのものであり、生活の計画とすべきである。まもなく、その宗教的な計画とこの天からの啓示によってあなた方が何をしたかが問われるであろう」
ある日、神の預言者が、ワリードという人物と共にモスクに座っていると、ナズルという人物がやって来て彼らの隣に座りました。預言者は、クライシュ族の一団と話をしていました。ナズルはそれに対抗しました。預言者は、論理的な根拠を示し、偶像崇拝が不当であることについて彼を非難し、その上でこの節を彼らに聞かせました。「あなた方とあなた方が崇拝する神以外のものは、地獄の薪となるだろう。あなた方は皆、そこに入る。もしそれらが神であったなら、決して地獄に入ることはなかっただろう。だがあなた方はその中に永遠に留まる」 預言者はその後、立ち上がり、去って行きました。そのとき、アブドッラーという人物がやって来て、その集団に加わりました。ワリードはアブドッラーに言いました。「ナズルがムハンマドの前で何も言えなくなってしまった。ムハンマドは、私たちと私たちが崇拝するもの全てが、地獄の薪であると言った」 するとアブドッラーは言いました。「神に誓って。もし彼に会っていたら、答えを返していたのに。私たちと私たちの崇拝するもの全てが地獄にいくというのは本当かと彼に尋ねてほしい。もしそうならば、私たちは天使を崇拝する。ユダヤ教徒はオザイルを、キリスト教徒はマリヤムの子、イーサーを。私たちが天使とオザイルやイーサーなどの預言者たちと共にいることの何が悪いというのだろう?」 ワリードはこの言葉を預言者に伝えました。預言者はいました。「その通り、誰もが崇拝の対象となることを望むことができる。その対象も、それを崇拝する者たちと共に地獄に行くだろう。偶像崇拝者は実際、悪魔を崇拝し、悪魔に従っていた」
そのとき、アッ・ズフルフ章の第57節が下されました。
「マルヤムの子、イーサーが例に挙げられたとき、突然、汝の民はそのために大きな声で嘲笑を始めた」
イーサーについて例が挙げられた、というのは、多神教徒が、「あなた方とあなた方が神以外に崇拝するものは地獄の薪である」というアル・アンビヤー章の第98節を聞いたときのことを指しています。彼らは、「マルヤムの子、イーサーも崇拝の対象となったのだから、この節により、地獄にいるべきである。私たちと私たちの偶像もイーサーの仲間になるとは、なんと良いことだろう」と言い、嘲笑いました。それから彼らは、「私たちの神の方がよいのか、それともイーサーだろうか?イーサーが地獄にいるのなら、私たちの神々は彼よりも優れているわけではない」と言いました。
コーランは続けて、預言者にこう語りかけています。「このような例は、汝との言い争いから挙げられたに過ぎない。彼らは反逆的で憎しみを抱く集団である。地獄に入るのはフィルアウンのように、自分を崇拝するように人々に呼びかけ、人々に崇拝されることに満足していた対象のみであって、イーサーのように、そのような行いを嫌悪していた者ではないことを彼らは知っている」
アッ・ズフルフ章の第59節には次のようにあります。
「イーサーは、我々の恩恵に授かる単なる僕に過ぎなかった。我々は彼をイスラエルの民のための模範とした」
イーサーは、生涯、神の地位を認め、全ての人に神への崇拝と服従を呼びかけ、唯一神信仰の道を外れることを許しませんでした。預言者イーサーは、あらゆる曖昧な点を明らかにするため、このように語っています。「間違いなく、神は私の主であり、あなた方の主である。だから神を崇拝しなさい。これはまっすぐな正しい道である」