6月 02, 2018 23:48 Asia/Tokyo
  • コーラン第44章アッ・ドハーン章煙霧
    コーラン第44章アッ・ドハーン章煙霧

今回は、コーラン第44章アッ・アッ・ドハーン章煙霧についてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・ドハーン章はメッカで下され、全部で59節あります。

 

アッ・ドハーン章で述べられているのは、コーランの偉大さとそれが祝福された夜に下されたこと、唯一神信仰と創造世界における神の偉大さのしるし、不信心者の運命と彼らへの懲罰、フィルアウンの仲間たちに対抗する中での預言者ムーサーとイスラエルの民の運命とフィルアウンの仲間たちの敗北、創造が目的に沿って行われたこと、最後の審判と地獄の人々の責め苦や敬虔な人々への報奨となっています。この章は、第10節でアッ・ドハーン、つまり煙霧について語られているため、アッ・ドハーン章と名づけられています。

 

アッ・ドハーン章の第1節から5節を見てみましょう。

 

「ハーム・ミーム。この明瞭な書物に誓って。我々はそれを祝福された夜に下した。我々は常に、警告を与える者であった。[その夜、]あらゆる事柄が英知に基づいて解明される。それは我々からの命である。まことに我々は[預言者を]遣わした」

 

コーランは、明瞭な内容、明らかな知識、生き生きとした建設的な教えと戒律を持つ書物です。この書物は、祝福に満ちた夜に神から下されました。その夜、永遠の善の源です。多くのコーラン解釈者は、その夜を「ガドルの夜」とし、コーランが下されたことによって、人類世界の運命が新たな色合いを帯び、人々の運命が定められる夜だとしています。

 

とはいえ、コーランの下された方には2種類がありました。そのうち一つは、この神の書物の教えが、預言者が使命を授かった23年の間に少しずつ下される、というものです。その節の一部は、23年の間に預言者ムハンマドとイスラム教徒の人生のさまざまな出来事に関するものです。またもう一つは、一夜の間に一度に下されるもので、それは、イスラム暦のラマザーン月のガドルの夜に起こります。コーランは、第97章アル・ガドゥル章みいつで、このガドルの夜に触れています。「我々は、これをガドルの夜に下した」

 

 

アッ・ドハーン章の第9節は、真理を否定する人々について触れています。彼らは真理を冗談として捉え、この天啓の書物と預言者の使命を疑っています。その後、この節は続けて、このような頑なな否定者に警告を与え、第10節から12節で、預言者にこのように語りかけています。

 

「そこで、天に明らかな煙霧を起こす日を待ちなさい。すべての人を包み込む。これは痛ましい懲罰である。[彼らは言う。]『主よ、私たちから責め苦を取り除いてください。私たちは信仰を寄せます』」

 

明らかな煙霧、という言葉が指しているのは、世界の終わり、最後の審判の前に天を覆いつくす濃い煙のことです。この煙は、世界が最後の瞬間を迎え、圧制者や堕落した人々への神の責め苦が始まるしるしです。世界が終わり、最後の審判のときがくると、不信心者の全身は恐怖に包まれ、彼らの目の前で怠惰の幕が取り払われます。彼らは自分の大きな過ちを悟り、神に向かってこのように言います。「主よ、私たちから責め苦を取り除いてください。私たちは信仰を寄せます」

 

彼らは以前にも、預言者が現れたというのに、訓戒を受け、それまでの道を引き返すことはありませんでした。預言者の教えと計画は、すべて明白なものでした。しかし彼らは、唯一の神に信仰を寄せ、預言者の指示を受け入れる代わりに、教訓を得ずに背を向けました。彼らは、預言者は狂っており、他の人たちからそのような内容を吹き込まれたのだと言いました。

 

コーランはその後、「我々はあなた方への責め苦をわずかに退けるが、あなた方は教訓を得ず、再び自らの行いに戻る」と語っています。ここで、圧制者や悪い行いをする人々は、責め苦に襲われた際に自分の行いを後悔し、改めることを決意しますが、それは一時的なものだということが明らかになります。嵐が過ぎれば、再び誤った行いに戻るのです。アッ・ドハーン章の第16節は続けて次のように語っています。

 

「我々が大きな力で[不信心者を]包み込む日、まことに我々は報復をする」

 

この節は実際、過ちを犯した人や圧制者を待つ、大きな厳しい懲罰のことを指しています。

 

アッ・ドハーン章の節は、否定と疑いの道を選んだ以前の共同体に触れ、預言者ムーサーとフィルアウンの物語を挙げています。ムーサーはフィルアウンの仲間たちにこう言いました。「神の僕たちを私に委ねなさい。私はあなた方のための信頼できる使徒である」 ムーサーは続けて、さまざまな論理と共に、フィルアウンとその側近たちを正しい道へと導き、彼らの暗い心に真理の光をともそうとします。しかし、彼の導きは彼らに何の影響も与えませんでした。ついにフィルアウンとその軍勢は、自分たちの優位を示そうとしたために屈辱的な敗北を喫し、滅びます。一方でイスラエルの民は彼らの嫌がらせから解放されました。フィルアウンの仲間たちは、それまで所有していた庭園や泉、畑や森林、その他、多くの恩恵のすべてを捨て、去っていきました。このようにして、フィルアウンたちの大きな遺産がイスラエルの民に引き継がれたのです。

 

 

コーランによれば、世界は真理によって創造され、目的を持ったものです。アッ・ドハーン章の第38節と39節には次のようにあります。

 

「我々は天と地、その間にあるすべてのものを目的もなく戯れに創造したのではない。我々はその2つを、真理によってのみ、創造した。だが彼らの多くは知らないのだ」

 

そう、この壮大な創造には目的があります。もし死が、人間の人生の終着点であり、しばらくの間、食べたり眠ったりした後にすべてが終わってしまうのだとすれば、この創造は無意味なものです。全知全能の神が、この壮大な機関を何の目的もなく、はかない数日間の人生のために創造したのだと考えることは、この神の英知には合致しません。創造について考えることで、私たちは、この世界が永遠の世界のための入り口、または通路に過ぎないことを理解することができるでしょう。世界が目的を持って創造されたという事実は、コーランの他の節でも述べられています。たとえば、アル・アンビヤー章の第16節には次のようにあります。「我々は天と地、その間にあるものを戯れには創造しなかった」

 

いずれにせよ、この世界の創造が目的を持ったものとなるのは、来世という別の世界がその後に続く場合です。また、現世が真理に沿ったものであるためには、善を行う人と悪を行う人の状態が同じであってはなりません。しかし、これら2つのグループがそれぞれ、現世で、彼ら自身の行いに沿った報いを受けることはほとんどありません。このことから、真理と正義により、人間の行いが清算され、それぞれが自分の行いに見合ったものを受け取ることができるよう、別の世界が存在する必要が起こるのです。

 

 

アッ・ドハーン章の第40節は、最後の審判と悪い行いをした人々の運命、天国と天国の人々の安楽な生活に触れ、このように始まっています。「間違いなく、真理と偽りが区別される日は、彼らすべてに定められたものである」 この節は、復活について触れています。そこでは真理が偽りと、善を行った人が悪を行った人と区別されます。その日は罪を犯した人の約束の日であり、その日は、誰も他人のことを助けることができず、どこからも助けは訪れません。その日、友人や親戚も互いに助け合うことはできません。神の慈悲に授かった人を除いては、計画は水の泡となり、道は行き止まりになるのです。

 

アッ・ドハーン章の第43節から先の数節は、地獄の人々の責め苦の一部に触れています。これらの節によれば、臭くて苦い地獄の木、ザックームが罪を犯した人々の食事です。この植物は腹に入ると非常に高い熱を発し、熱湯のように沸き立ち、力の源となる代わりに、苦痛と不幸を作り出します。コーランは続けて、このように述べています。「地獄の役人たちは、この頑なな圧制者を捕らえ、地獄の真ん中に投げ落とすよう指示される。それから、熱湯を彼らにかけるように命じられる。このようにして、彼らは内側からも、外側からも全身を業火に包まれる」

 

コーランは続けて、天国の人々の恩恵と報奨を挙げ、地獄の人々の状態と比較しています。救われた人々が授かる恩恵には、安全な場所、楽園や泉の中での生活、豪華な衣服、美しい女性たちとの結婚、あまくておいしいさまざまな種類の果実、永遠の楽園での生活があります。これらの多くの恩恵はすべて、神からのものであり、これこそが、大きな救済と成功なのです。