6月 03, 2018 22:24 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回も前回に引き続き、コーラン第51章ザーリヤート章を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

ザーリヤートとは、撒き散らすもの、という意味で、雲を動かす風を指します。

 

ザーリヤート章では主に、復活、不信心者への非難、敬虔な者たちの運命、創造世界における唯一神のしるし、預言者イブラヒームのもとに現れた天使たちの物語、ルートの民の運命、預言者ムーサーの物語への簡単な言及、アード、サムード、ヌーフの民、過去の預言者たちとの頑なな民の闘争、イスラムの預言者への勧告、創造の哲学などについて語られています。

 

 

この章では、以前の預言者と民の運命について述べられています。最初は、ルートの民に責め苦を下すために、人間の姿をして預言者イブラヒームの前に現れた天使たちについてです。

 

ザーリヤート章の第24節と25節を見てみましょう。

 

「イブラヒームの偉大な客人たちの知らせは汝に届いたか? 彼の許に入って来た時、彼らは平安あれと挨拶をした。彼は言った。『見知らぬ人たちよ、平安あれ』」

 

見知らぬ客人たちは、イブラヒームの許に入ってきました。イブラヒームは客人たちをもてなすために家族の許に行き、焼けた肉を彼らに出しました。食事を彼らの近くに置きましたが、驚いたことに、彼らは食事に手を付けようとしません。彼は食べないのかと尋ねました。イブラヒームは、そのような状況に心の中で恐怖を抱いていました。神の天使だった客人たちは、彼に、「恐れることはない」と言い、賢い息子の誕生という吉報を彼に伝えました。そのとき、イブラヒームの妻が歩み出て、嬉しそうに驚きながら叫び声を上げ、顔を叩きながら言いました。「私は子供が産めない老婆です。それなのに子供を授かるのですか?」 天使たちは言いました。「あなたの神はそのように言っています。神は全知全能であられ、神の意志が及べば、必ずそれは実現するでしょう」

 

イブラヒームは、客人たちの状態や様子から、彼らが子供の誕生を伝えるためだけに、自分のもとにやって来たのではないことを悟りました。恐らく、天使たちの態度から、彼らにはもっと重要な用事があることが分かったのでしょう。ザーリヤート章の第31節と32節には次のようにあります。

 

「[イブラヒームは]言った。『[神の]天使たちよ、あなた方の任務は何ですか?』天使たちは言った。『私たちは罪を犯した民の許に遣わされたのです』」

 

天使たちが指しているのは、ルートの民のことでした。ルートの民は、多神教崇拝や様々な堕落に陥っていました。しかし、ルートの民の最大の罪は、非常に醜く、好ましくない行いである、同性愛に走ったことでした。天使たちは続けて、イブラヒームに言いました。「私たちは、泥石の雨を彼らに降らせ、それによって彼らを滅ぼす任務をつかさどっています。その泥石は、あなたの神から、節度を超えた人々のために降らされるものです」

 

その後、コーランは次のように語っています。「我々はルートの民の町に暮らしていた全ての敬虔な人間を、災難の前に逃した。だが、その地域の人々は皆、一つの家族を除いて信仰を持っていなかった」 このようにして、預言者ルートの一族だけが救われました。しかし、罪びとの一人であった彼の妻は別でした。その堕落した民の町は、大地の揺れによって破壊されました。その後、彼らの上に天から泥石の雨が降り、彼らは跡形もなくなりました。それは、未来の人々のための教訓となるようにするためのものでした。この出来事の結びとして、ザーリヤート章の第37節には次のようにあります。エ「そこに、痛ましい責め苦を恐れる人々のためのしるしや教訓を残した」

 

 

ところで、私たちは何のために創造され、私たちがこの世にあらわれた目的は一体どんなことなのでしょうか?ザーリヤート章の第56節は、この疑問に次のように答えています。エ「また、私を崇拝させるためだけのために、ジェン・精霊と人間を創造した」

 

この節によれば、私たちはみな、神を崇拝するために創造されました。ここで言う神への崇拝とは、何を指しているのでしょうか?神への崇拝とは、創造主である神の清らかな性質に対して最大限に服従し、謙虚になることです。それは、人類が創造された最終的な目的であり、神はそれに到達させるため、人間を試し、人間に知識と見識を与えています。創造は、実際、壮大な完成の一段階です。つまり、何もないところから存在を生み出すことであり、そこから次の段階が始まります。宗教的な教えや計画は、そのためにあるものです。

 

神は寛大さと恩恵の源であり、さまざまな存在物を自らの保護のもとで、欠点のある存在から完成へと導きます。そのため、私たちの崇拝や服従は、私たちが教育され、完成に至るための授業のようなものです。言い換えれば、僕は、あらゆる完成の源である神を知り、自らを神の完成の形に合致させ、その存在の中に神を信仰する性質が現れるようにする必要があります。神に近づくことは、神の性質を身につけることによってのみ、可能です。そこで、神を崇拝することとは、つまり、自らを神の性質によって飾ることであり、それは人間の完成の極致なのです。

 

 

 

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