10月 03, 2018 17:49 Asia/Tokyo

コーラン 第29章 アンキャブート章 蜘蛛 第62節~第66節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において


第62節
「神は、誰でもお望みの僕に日々の糧を広げ、またあるいは狭められる。まことに神は、すべてのことを知っておられる」(29:62)

 

 (62)اللَّهُ يَبْسُطُ الرِّزْقَ لِمَن يَشَاءُ مِنْ عِبَادِهِ وَيَقْدِرُ لَهُ إِنَّ اللَّهَ بِكُلِّ شَيْءٍ عَلِيمٌ

 

前回の番組では、メッカのイスラム教徒は多神教徒の嫌がらせを受けており、何年もの間、商業取引を制限され、経済的に封鎖されていました。そのような状況の中でもなお、彼らの一部は、自分の土地を離れて移住するのを嫌がりました。この節は次のように語っています。「商売がうまくいかず、生活の糧を稼ぐ上で問題があるからといって、信仰をすててはならない。それどころか、信仰を保ち続けなさい。覚えておくがよい、日々の糧は神の手の中にある。移住する必要が出た場合には、自分の町を離れてメディナに移住しなさい」

第62節の教え
●    日々の糧を得るために努力することは、私たちの責務です。しかし、その量は私たちが決めることではありません。神の英知に基づいたものです。
●    現世の恩恵や日々の糧の量が人によって違うのは、神から知性や能力を与えられる上での違いと同じように、神が英知に基づいて決定していることです。とはいえ、この違いは人類社会に必要なものです。


第63節
「もし彼らに、『誰が空から雨を降らせ、それによって死んだ大地を蘇らせるのか』と尋ねたなら、彼らは間違いなく、『神』と言うであろう。言え、『賞賛は神のみのものである。だが彼らの多くは考えない』」(29:63)

 (63 )وَلَئِن سَأَلْتَهُم مَّن نَّزَّلَ مِنَ السَّمَاءِ مَاءً فَأَحْيَا بِهِ الْأَرْضَ مِن بَعْدِ مَوْتِهَا لَيَقُولُنَّ اللَّهُ قُلِ الْحَمْدُ لِلَّهِ بَلْ أَكْثَرُهُمْ لَا يَعْقِلُونَ

 

第64節 
「現世の生活は、戯れや遊びに過ぎない。明らかに、来世の住みかこそ、真の生活である。もし彼らが知っていたならば」(29:64)

 

(64 )وَمَا هَذِهِ الْحَيَاةُ الدُّنْيَا إِلَّا لَهْوٌ وَلَعِبٌ وَإِنَّ الدَّارَ الْآخِرَةَ لَهِيَ الْحَيَوَانُ لَوْ كَانُوا يَعْلَمُونَ

 

人間の生命や日々の糧の源は雨であり、ある地域に数年間、雨が全く降らなければ、干ばつになり、動植物が消滅し、人間は飢餓に襲われます。この節は次のように語っています。「多神教徒たちは、雨を降らせるのは神だと考えていたが、それでもなお、偶像崇拝に走り、それらが自分の生活に影響を及ぼすと考えていた。それなのに、信仰を寄せた人々は、なぜ、自分の日々の糧の確保について不安を抱き、それを恐れて神の道における移住を行おうとしないのか?彼らは、真の生活と日々の糧が来世にあり、この華やかな現世は皆、戯れに過ぎないことを知らないのか」

子供たちはさまざまなおもちゃで遊ぶことに熱中し、大人たちは、車や家、工場などに夢中になります。子供の遊びでは誰かが王になり、誰かが大臣になり、また医者と患者、母親と子供になるものがいます。そして遊びが終わると、それらが単なる空想であったことが明らかになります。大人になってからも、人間は社会において何らかのポストや地位を手にしますが、人生が終わったとき、その人は、それらが皆はかなく消え去るものであり、そのような戯れによって人生を終えてしまったことに気づきます。昔の皇帝も、軍の司令官も、彼らの戯れの時代は終わり、今はまた、別の人たちが戯れに夢中になっているところなのです。

第63節~第64節の教え
●    神を知ることは本能的な欲求であり、罪や逸脱が迷った人々の心から取り除かれれば、彼らは真理を認めるでしょう。
●    多くの人は知らないふりをし、自分と世界の起点、終点について考えようとしません。
●    来世のことを考えず、その真実を知らないことにより、人間は現世に心をとらわれ、物質的、世俗的な事柄に夢中になります。
●    真の生活は来世にあります。そこでは誰もがしかるべき地位にあり、苦痛や圧制は存在せず、誰かの権利が踏みにじられることもありません。                   

第65節
「そこで、彼らは船に乗るとき、[船が嵐にあったときには]純粋な心で神に祈りを捧げる。[そして神以外の存在を忘れる] だが神が彼らを陸地に届け、救うと、再び多神教信仰に戻る。」(29:65)

 

 (65)فَإِذَا رَكِبُوا فِي الْفُلْكِ دَعَوُا اللَّهَ مُخْلِصِينَ لَهُ الدِّينَ فَلَمَّا نَجَّاهُمْ إِلَى الْبَرِّ إِذَا هُمْ يُشْرِكُونَ


第66節 
「我々が彼らに与えたものへの感謝を忘れ、[現世のはかない満足に]ふける。だがまもなく、彼らは理解するだろう」(29:66)

 

  (66) لِيَكْفُرُوا بِمَا آتَيْنَاهُمْ وَلِيَتَمَتَّعُوا فَسَوْفَ يَعْلَمُونَ  

 

人間の本能を呼び覚ますために、天と地にある神の力のしるしに触れた前の節に続き、この2つの節は、危機に陥り、すべてのもの、すべての人に対する希望が失われた際、誰を頼りにし、誰に助けを求めるかということを人間に想起させています。船が沈もうとしているとき、私たちは誰に助けを求めるでしょうか?飛行機が墜落しようとしているとき、誰に祈るでしょうか? それは、私たちを救い、絶対的な死から解放することのできる偉大なる神なのです。

人間は、人生の中で、様々な物質的手段、あるいは親戚や友人を頼りにし、問題に直面した際には、彼らやそれらに助けを求めます。そのために神を忘れますが、危機に陥った際、誰もその叫びに応えられないときには、神のみを求め、他の人たちのことを忘れます。しかし興味深いことに、絶対的な危機から人間を救ってくださった神のことを、人間は再び忘れ、神の恩恵に感謝したり、その恩恵を思い起こしたりすることもなく、物質的な生活と現世での恩恵の利用を追い求めるようになるのです。

第65節~第66節の教え
●    怠惰の埃は人間の本能を覆い尽くしますが、危険な出来事がその怠惰の幕を脇に追いやり、人間の神を求める本能を目覚めさせます。
●    純粋な心で行う祈りはかなえられます。不信心者でさえも、純粋な心で祈りを捧げれば、それはかなえられます。
●    多神教信仰は、神への感謝を忘れ、神の恩恵を信じないことです。唯一神信仰は、神の恩恵に感謝することです。
  
 

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