国際語として完成された古いペルシャ語
イラン人によって整備され、使用されるようになった学術的、文学的なアラビア語は10世紀から11世紀ごろの時期まで、もっぱらイランの文化人たちの中で、専用言語として使われていました。しかしこの時代以降、古いペルシャ語であるダリー語が次第に文化的、学術的、文学的な言語となりました。イランの文化人はこの学術的な言語を発展し、完成させることで、その後この言語を国際的な言語にしたのです。ペルシャ語の発展と平行して、アラビア語は次第にそれまでの影響力や包括性を失い、イランの文化人たちの間では、ペルシャ語がアラビア語にとって代わるようになりました。
ダリー語と呼ばれる古いペルシャ語は、イスラム以前のイランにおける口語をもとにした言語で、イスラム初期時代の数百年の歴史の中では、学術的、文化的に使用された経歴はありませんでした。なぜなら、サーサーン朝時代の学術的、宗教的な公用語はパフラヴィー語かシリア語だったからです。このため、この言語はイスラム初期時代の数百年間は、イランの文化人たちの間での公用語、また学術・文学界の言語にはなりえませんでした。しかし、10世紀から11世紀にかけての時期から、イスラム時代の中でイランの文化的なアイデンティティが目覚めはじめ、イランの人々は過去の自信を取り戻しました。こうして、サーサーン朝の領内で、官僚の間の日常会話として使用されていた、ダリー語が、これまで以上にイランの文化・文学界で広まったのです。この言語は、イラン東部そしてカリフの支配領域において、次第にソグド語やハーラズム語などのような民族語に代わり、イラン東部地域での主要な言語となりました
ペルシャ語はサーサーン朝時代、口頭での伝達手段、そしてイランにおける共通の民族語として使われ、パフラヴィー語は宮廷言語として、また宗教、文学用の書き言葉とみなされていました。イスラム時代、口語として使われていたペルシャ語は、パフラヴィー語の複雑な文字よりも遥かに単純な、ペルシャ語化されたアラビア語のアルファベットを受け入れ、書き言葉としても使用されるようになりました。ダリー語を文学的、学術的、事務的な言語として受容する以前、ダリー語は一般の人々が街中で使っている言葉でしたが、アラビア語は宗教、学術、宮廷、文学の領域での伝達であり、学識のある人々が話し言葉、書き言葉として利用していたのです。
ダリー語は当初から混成語としての特性を示し、アラビア語のアルファベットを受容したことで、アラビア語に詳しいイラン人が作り出していた、多くのアラビア語の語彙と概念を取り込む道を開きました。ダリー語にはまた、イラン人の方言も容易に入ってきました。まさに、イスラム世界のさまざまな文化や民族の持つ語彙や概念を受け入れる、こうした可能性により、ダリー語が国際言語となる可能性はこれまで以上に広がったのです。
イランの王朝の創設者やその一族がアラビア語をあまりよく知らず、彼らの支援によりダリー・ペルシャ語がイランの文化や文学、詩のための言語となっていたにもかかわらず、これを宮廷で使われる公用語として受け入れようとせず、従来どおりアラビア語を公用語としつづけていたのは、イランの歴史の驚くべき点の一つです。ターヘル朝、サーマーン朝、ブワイフ朝、これらすべての王朝では、宮廷の公式文書をアラビア語で記していました。10世紀の歴史家マスウーディーの歴史書によると、この時代、イラン中西部やアーザルバ-イジャーン、アルメニアやコーカサス一帯から、北東部ホラーサーン、南東部スィースターンに住んでいたすべてのファールス人やイラン人は、ペルシャ語を話していたとしており、また11世紀の地理学者ムカッダシーによると、この時期、すべての非アラブ系の人々は、ペルシャ語を話していたということです。
ペルシャ語はイランの公用語として、12世紀のセルジューク朝時代に受け入れられました。彼らの出自はトルコ系でしたが、それ以前のイラン人の為政者と違い、ペルシャ語を公用語、かつ宮廷内で使う言葉として選択しました。これはおそらく、ペルシャ語で自らの文学的、学術的な思想を表現するようになっていた学者や作家、語り手の努力により、この時代からペルシャ語が公用語とされるのに必要な可能性を持つようになったことが大きな理由となっていると考えられます。
トルコ系部族やモンゴル族のイラン侵入により、ペルシャ語が強化され、損害をこうむらなかっただけでなく、その後、移住者としての彼らはイランの文化に引き寄せられました。このため、13世紀から14世紀にかけて、広大なイスラム世界の多くがトルコ系による軍事的、政治的支配の下に置かれ、この時代の多くの為政者もイラン文化の影響を受けたました。このため、イラン文化の国際交流の言語だったペルシャ語は、イラン化したトルコ系の為政者の支持を受け、中国からインド、小アジアにいたる広大な範囲に広がり、最も信用の高い国際言語となりました。モンゴル帝国時代の初期から、ペルシャ語はモンゴルのハーンたちの正式な伝達手段として使用されたのです。モンゴル帝国第3代目の皇帝グユグ・ハーンのローマ教皇に宛てた国書は、ペルシャ語で記されており、その原本には彼の印が押されています。マルコポーロはペルシャ語を知っており、中国のほとんどの地名をペルシャ語で書いていました。
14世紀のイブン・バットゥータの時代、ペルシャ語は国際語として、最も高い可能性を獲得していました。イスラム教徒の旅行家イブン・バットゥータは、モンゴルの支配下にあった中国の一部からインドの密林の奥深くなど、どこに行ってもペルシャ語を話す人に出会ったと語っています。彼は、14世紀に世界中を旅して見聞を広め、ペルシャ語が世界中に広まっていたという驚くべき事柄の証人となりました。この時期には、トルコ語も中央アジア、インド、小アジア、イランのアーザルバーイジャーン地方で、日常的な話し言葉とされていましたが、イスラム教徒の人々の間の文化交流に使われる言語や学術用語、文学・行政で使用される言葉はペルシャ語でした。イブン・バットゥータによると、この時期にインドのトルコ系王朝の宮廷で使われていた言葉はペルシャ語であり、宮廷の儀式や多くの宮廷人の名前はペルシャ語だったということです。彼らは、デリー・スルタン朝の宮廷を「ダールサラー」と呼び、死刑執行人のことを「ドジュヒーム」、金塊や銀塊のことを「ヘシュト」と呼んでいましたが、これらはすべてペルシャ語です。また、インドでは外国人のことを「ホラーサーニー」、すなわちイラン北東部のホラーサーン人と呼んでいたのです。さらには、宮殿の大広間を「バールガー」、美しい装飾を施したアーチを「ターゲ・ノスラト」と呼んでおり、これらにもペルシャ語の語彙が使われています。
『ケンブリッジ・イラン史』では、ガズナ朝が繁栄していた時代から、北インドではトルコ系のガズナ朝、ゴール朝、ハルジー朝が出現し、17世紀からイギリス植民地時代までのムガル朝時代の全ての時代も、トルコ系民族がインドを統治していました。しかし、宮廷人たちが使う宮廷の公用語はペルシャ語で、宮廷で働こうとする際、ペルシャ語が完全に扱えなければなりませんでした。
11世紀のフジュヴィーリー、12世紀のマスウード・サアド・サルマーン、ルーニーなどは現在のパキスタンのラホールで、ペルシャ語による創作活動を行っていました。彼ら以前の時代の、インドの高名なペルシャ詩人、かつ神秘主義者のアミールホスローは、インド人を母親として生まれましたが、ペルシャ語で詩を吟じていたのです。13世紀のペルシャ語詩人サアディーの時代も、現在は中国の一部である、トルキスタンのカシュガルの人々はペルシャ語を知っていました。サアディーの名作『バラ園』の第5章によると、カシュガルの大モスクにおいて、ある若者が彼に対して、「この地域では、サアディーの詩のほとんどはペルシャ語のままで翻訳されていないが、我々にはこの方が分かりやすい」と語っているということです。
現在パキスタンの人々が使用しているウルドゥー語は、語彙、概念、詩の形式、文の構造、即興詩、語法の点で、ペルシャ語から強い影響を受けています。ペルシャ語はウルドゥー語だけでなく、サンスクリット語を起源とするインドの諸言語にも影響を与えました。インド南部のドラヴィダ語もペルシャ語の影響を受けています。ペルシャ語やペルシャ語詩は、ウルドゥー語文学に非常に大きな影響を与えました。そのため、ウルドゥー語の詩はインドの英雄ではなく、イラン中世の叙事詩『王書』の英雄ロスタムやイスファンディヤールについて、またインドの恋愛詩ではなく、『ライラとマジュヌーン』、あるいはイランの詩人ニザーミーの『ホスローとシーリーン』について、さらにインドの河川ではなく、ペルシャ語圏にあった中央アジアのアムダリヤ川やシルダリヤ川について指摘しているのです。
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