2月 14, 2016 20:28 Asia/Tokyo
  • イランの陶芸
    イランの陶芸

これから数回に渡り、イランの陶芸とその歴史、この伝統工芸がどのように発展していったかについてお話します。

イランの伝統工芸の調査は、文明の発祥の時代と歴史の様々な時代における人々の生活様式に関係があります。アーサー・ポープやその妻、フィリス・アッカーマン、アンリルネ・ダルマーニといった有名なイラン学者や美術史家の考えるところでは、農業や鉄、陶器の発祥の地は中東、とくにイラン高原だということです。

 

イランにおける人類の最古の生活は、発見された遺物や記述によると、中石器時代に関するものです。この文明はおよそ12000年から1万年前にこの地域で形作られ、それに関する遺物は、イラン北部の現在のベヘシャフルの近くにある洞窟の中で発見されました。この遺物はその時代、イランで小麦や大麦などの穀物の栽培が広まっており、作物を鎌で刈り取っていたことを物語っています。この鎌は、火打ち石で作られており、ギザギザの刃と模様が入っています。その当時、家畜の飼育が広まり、ヤギ・羊の肉と乳も利用されており、動物の毛も織物に使用され、陶器も日常での使用のために作られていました。

 

フランスの考古学者、ローマン・ギルシュマンは、調査の中で、その昔、イラン西部から南西部にかけてのバフティヤーリー山脈の中で暮らし、陶器の製造方法を知っていた人々の存在について触れています。すべての歴史的な資料や発掘物は、イランで農業や陶器や織物などに関する工芸が始まったことを物語っており、イランの文明はこの分野で、エジプト、インド、中国の文明よりも秀でていたことを示しています。

スィアルクの丘

 

陶器製造はイランにおいて長い歴史を有し、人間による最初の、そして最も重要な発明の一つです。考古学者は、陶器製造の方法によって、その時代や場所の社会的、経済状況を知り、その時代の生活、宗教、歴史、社会的関係に関して情報を得ています。陶器は人類史のほぼすべてにおいて、地球上で、太古の昔から現在まで使用されてきたもので、このため、有史以前の時代について調べる上で、重要な役割を担っています。陶器の製造は有史以前の文化の変化や人類の経験の深まりと共に、材料や形、色、模様の点で大きく変化しています。

 

イランの有史以前の工芸に関する最初の大発見は、イラン南西部のシューシュで、ジャック・ド・モルガンによって行われました。この発掘で見つかった品々は青銅器時代初期に属するもので、銅製の斧や針、鏡を含むもので、墓の中から見つかり、イラン人がこの金属の可能性を知っていたことを示すものです。

 

イラン各地の数多くの発掘の中で、様々な繊維で織られた織物も発見されていますが、その時代のイランの最大の工芸は陶芸だったと見られています。陶器の製造はろくろを使って行われ、おわんや鍋、花瓶、赤色の上薬のかかった磨かれた器などが作られており、イランで繁栄した工芸の一つとなっていました。シューシュの発掘では、こうした品々にくわえて、小さな石や魚の骨で作られた首飾りも見つかっており、その傍らには宝石のついた指輪や動物の形に作られた石の印鑑もありました。イラン南部のペルセポリスでも、薄い陶器が見つかっており、その上には繊細な模様や装飾が施されています。こうした発見はイランの陶器製造が発展していたことの最大の根拠となりえるでしょう。

 

およそ1万年前、現在のイラクのメソポタミアに住んでいた人間が洞窟生活を経て、食料生産の時代に入り、河川のそばの肥沃な地域に、最初の農業の集合体として定住しました。彼らは文明の礎を築き、その特徴としては淡い黄色と赤の優美な陶器の製造があります。この文明はこの地域で、その他の特徴と共に開花し、次第に広大な地域の有史以前の世界に広がっていきました。この種の陶器の遺物は地中海東部からパキスタンのシンド川の渓谷まで、考古学的発掘の中で見つかっています。

 

イラン高原の陶器の特徴の一つは、赤の彩色であり、紀元前6000年から5000年期の間に、イラン高原の砂漠で形作られ、広まりました。これらの陶器は手で作られ、赤色をしており、材料は砂や植物を混ぜた粘土でした。この種の陶器の代表的なものは、イランの西部と中部の各地の考古学的発掘の中で発見されており、イラン高原のこの文明の広がりを表しています。

スィアルクの丘

 

イラン中部カーシャーンの近郊にあるスィアルクの丘では、赤い色の陶器が製造されており、それ以前の陶器と比べて、質の点で優れているようです。この器は原始的な窯で作られていたため、他の陶器よりも耐久性が強くなっています。スィアルクの丘で見つかった陶器の表面にはヤギや馬、太陽の絵、さらには多くの幾何学模様が見られます。

 

紀元前1400年、イラン高原に住んでいた人々はさらなる進化を遂げ、陶器の表面に黒色で野生の鳥や動物の模様を描いていました。この陶器は次第になめらかになり、その形も整えられていきました。そして陶器を作るためのろくろが発明され、陶器は繁栄をとげました。資料によれえば、その当時のろくろは幅の狭い板で、地面の上に置かれ、それを手で回していました。こうして美しい形の器を作っていたのです。これまでこの種の器と似たものは世界のどこにもなく、イラン人がこの工芸において他の民族より優っており、おそらくろくろを発見したのは彼らであると結論付けることができるでしょう。

 

紀元前3000年期の初めから、ある陶器の製造がイラン高原の北部から中部に入ってきます。それはハーケスタリーという名前で知られています。この種の陶器はろくろを使って製造されており、製造方法と装飾の点で、同時代の金属容器の影響を受けていました。ハーケスタリーは、温度と二酸化炭素の割合をコントロールすることのできる特別な釜の中で、高い技術をもって作られていました。

イランの陶芸

 

考古学者はハーケスタリーの陶器を、アルダビール、ゴルガーン、ダームガーンのそれぞれの古代の丘で発見しておりイランの北部から北西部にかけての地域は、この種の陶器の製造で重要な中心地でした。ハーケスタリーの陶器は紀元前、イラン高原に広まり、この時代に製造と装飾の点で技術的な発展と美しさの頂点を迎えました。しかしながら、金属の繁栄により、陶器は衰退しました。その中で作られた陶器は、多くが粗悪で模様もないものであり、有史以前の陶器を継承していませんでした。

 

重要な点は、陶器製造は時代の経過と共に、有史以前、有史後の文化の変化、民族の経験の深まりに従って、材質や形状、色、模様が変化してきたということです。この変化は陶器の種類を分ける決定的な要素であり、工業化の傍らで、今も多くの支持者を有しています。