さまざまなグループの人々の服装
これまで数回に渡り、イスラム初期のイラン人の服装についてお話しました。今回のこの時間は、さまざまなグループの人々の服装についてお話しします。
アッバース朝の初期、最も重要だったのは黒い色の服でした。アッバース朝のイラン人の政治家で軍人であったアブー・モスレム・ホラーサーニーをはじめとする重要な人物は、全身に黒い服をまとっていました。770年には、政府の要人に対し、黒い服を着ること、黒い帽子を被ることが命じられました。ターバンは、この帽子の下に巻かれていました。また、イラン人のスタイルに従い、剣を腰に巻き、服の裏側にコーランの節を記すのが慣習になっていました。
アッバース朝の為政者マームーンの時代、彼のイラン人の宰相の支援により、黒い服の変わりに、緑色の服を着る慣習が広まりました。男性や緑の服を身につけ、帽子の上に緑のバッジをつけていました。その後次第に、省庁の衣服が特別な衣服となり、宰相たちは任命されると、そのような衣服を身につけるようになりました。その服装とは、丈が長く裏地のあるシャツ、縁取りのある黒い上着、宝石の飾られた黒い帽子、ブーツであり、そのブーツの中に、大抵、手帳やペンを入れていました。
アッバース朝の時代、軍人の服装は特別なもので、他の人々の服装とは異なっていました。一部の司令官たちは、前開きのボタンのある丈の長い上着を身につけていました。また、腰にはベルトのようにしてショールを巻いていました。この上着は袖が長く、腕には2つの金色の布が巻かれていました。この上着の下には、黒、白、青、金などのさまざまな色のズボンを履いていました。また軍人の被り物には、2つのつののついた黒い帽子、あるいは黒か赤のターバンの2種類がありました。
歴史によれば、932年、戦いに行く際、為政者カリフは、絹の飾りの付いた帷子を身につけていました。絹の飾りは、布の裏表にあり、彼らはそれを戦いの際に着ていました。この内側の飾りは、剣によって負傷するのを妨げる役目を果たしていました。この帷子は、シューシュタルという地方の絹織物で、銀色をしていました。また、カリフは黒い色のターバンを巻いていて、肩からはマントをかけ、赤い皮のベルトのついた剣を腰につけていました。この頃、司令官やカリフは、戦いの際、胸の部分に鉄の胸当てのようなものをつけ、ヘルメットのような帽子を被っていました。この頃、アッバース朝の関係者は、司令官たちに、イラン式の背の高い帽子を被ることを強制していました。
イラン人の司令官は、特別な衣服を身につけていました。アッバース朝のイラン人軍司令官であったアブーモスレム・ホラーサーニーは、黒い色の前開きの長い上着を身に付け、彼の部隊は“黒い服の戦士たち”と呼ばれていました。この頃、一部の地域では、軍隊の衣服に変化が見られ、灰色や薄い茶色の上着が流行していました。
裁判官、法学者、説教師の服装は、他の人たちとは異なるものでした。高位の人々は通常、幅の広い黒か白のズボンを身につけ、その上に、黒いシャツを着ていました。さらに、袖の丈がひじまでで、細かいボタンがついた上着と、その上に、長方形の前掛けのようなものを身につけていました。この前掛けのような布は、四つの角に紐があり、背中で縛られ、通常、絹でできていて、草花などの模様が描かれていました。またシンプルなターバン、あるいは錦織のターバンを頭に巻いていました。
イスラム初期、貴族や名士は、ウールや絹、皮製の靴下をはいていました。裁判官は、黒くて背の高い帽子を被り、その周りに黒いターバンを巻き、黒い服を着ていました。歴史によれば、アッバース朝の著名な裁判官は、冬にカリフの旅に同行した際、アナグマの皮でできた円錐形の背の高い帽子を被り、腰には、宝石をちりばめたベルトをまき、黒い毛皮の上着を着ていました。
詩人たちもまた、アッバース朝の偉人や高官たちと同じように、おのずと黒い服を身につけるようになりました。著名な詩人の一人は、カリフのもとを訪れる際、黒い服を身につけ、剣を腰に巻いていました。また、中には毛皮のコートを身につけたり、イスラム法学者の服装をしている人もいました。
神秘主義者たちの服装にも特徴がありました。彼らの服はウールでできていて、もし修行に入ろうとする人がいれば、その人は、神秘主義者たちの格好であるウールの服を身につけていました。この服装は、袖が長く、前は閉じていて、首から胸にかけてボタンがあるものでした。また、下までボタンが続いているものもありました。多くは白い色で、足元にはサンダルを履いていました。