3月 13, 2017 16:53 Asia/Tokyo
  • パーサールガード

イランには非常に多くの重要な史跡が存在し、考古学的、芸術的な点から特別な重要性を有しています。

イスラム前後の文明の最大の中心は、イランの西部、南部、中部にあります。この地域は長年、考古学者の注目を集め、ここで多くの発掘調査が行われてきました。これらの発掘やそれから得られた情報は、この地域における人類文明の歴史に加えて、古代イラン人の生活手段の興味深い点を明らかにしてくれます。

最近の考古学的発掘の結果、パーサールガードやその周辺の遺跡は、別々のものに見えますが、かつては、数多くの水路によってつながっており、一つの庭園を形成していたことがわかっています。このため、それらを別物として考えるのではなく、一つの集合体として検討するべきでしょう。

こうした理論は、パーサールガードで調査を行っていた考古学団体による3年間の活動の賜物であり、この地域で発掘が継続されることになりました。イランとイタリアの考古学チームは、この歴史的な地域で発掘調査を行いました。イラン考古学チームのアスギャリー代表は次のように述べています。

「パーサールガードに入る門は、この遺跡の最も重要な発見だ。2つの大きな丘の間は、庭園とこの敷地に入る門として使用されていたと見られる」

イタリア考古学チームの代表もこのように述べています。

「パーサールガードの敷地にある建物は、石とレンガでできており、現在、石だけが残っており、レンガは朽くち果はてた。しかし石の浮き彫りを見てみると、その時代の建築の高い能力や技術がピークを迎えていたことがわかる」

イタリア考古学チームの代表は続けて、「これまでの発掘から、この地域の庭園は死後の世界や楽園の存在を信じていたために作られたことがわかった」と述べています。

アケメネス朝創設者のクーロシュ王(キュロス大王)とダリウス王の墓もまた、パーサールガードの美しい庭園の傍らに立てられており、古代イランのこうした信条の存在を示しています。しかしながらこれらの建物は権力がアケメネス朝の王たちに引き渡された場所である可能性も存在します。壮麗な宮殿が立ち並ぶ、緑あふれる場所では政府の儀式が行われ、王の宝物もこの場所に保管されていました。

イタリアの考古学チームの代表は、パーサールガードからそれほど離れていない所にあるペルセポリスの遺跡を、アケメネス朝の為政者の考えていたことがそのまま現れたものだとし、その建築を非常に斬新的で秩序のあるものだとしています。

パーサールガードは、パールス人の陣営を意味し、イラン南部ファールス州の、タフテジャムシードと呼ばれる遺跡から45キロのところにあります。この遺跡にはアケメネス朝のクーロシュ王の宮殿、寺院、墓があります。この墓は、小さなジグラットの代表で、6つの階段と一つの部屋があり、その中でおそらく死者を弔ったり、祈祷が行われたりしていました。

一方で、クーロシュは、隣り合った二つの石の台座の下に埋められていたようです。この墓のそばにはナグシェ・ロスタムと呼ばれる巨岩の遺跡があり、紀元前6世紀のレリーフで、岩壁に人間の姿が刻まれています。ナグシェ・ロスタムの二方向にある岩の墓は、これらの建物の古さと壮大さを増しています。この場所がアケメネス朝の首都であったペルセポリスに近いことから、これらの遺跡の多くは共に提示、検討される対象となっています。

これらの遺跡はどの時代に属するものなのでしょうか?これに答えるためにはイランに最初のアーリア民族が定住した時代に遡る必要があるでしょう。メディア人は紀元前715年から550年まで、現在のイランの西部、南部、北西部、中部を統治しており、次第にアジアやヨーロッパの各地にその勢力を拡大していきました。

メディア人の政府を倒したクーロシュは、彼らの風俗習慣の多くを維持し、アケメネス朝を創設しました。春の始まりを祝うノウルーズの儀式は、この時代から重視されるようになりました。一部の歴史家は、この祝祭のために、ペルセポリスの建物を作り、そこで行事を取り行い、アケメネス朝の宮廷の壮大さを世界に広めていたとしています。

アパダナは、ペルセポリスの主要な宮殿であり60メートル四方の四角形となっています。この宮殿の装飾においては木々が主要な役割を担っています。糸杉やスイレンを抽象化したものが壁や階段の傍らに美しく描かれています。

ペルセポリスにおけるこの絵の重要性と豊富さ、地域の地理的な状況は、かつてファールスに緑あふれる庭園が存在していたことを示しています。このことはパーサールガードが庭園だったこと、イランにおいて庭園作りが行われていたという新たな仮説を強めています。

歴史家の記述によれば、3000年ほど前、イランの大きな邸宅の回りは庭園で囲まれ、パルディース(楽園)という言葉はこうした庭園のことを指していました。この言葉は後にほかの言語でも使用されるようになりましたが、もとは建物の周りの植樹、を意味していました。

パーサールガードは、アケメネス朝の最初の首都で、おそらく、イランのチャーハールバーグと呼ばれる形式による庭園の最初の作品であり、その中には広大な宮殿が建設されていました。イランの特徴であるこの種の庭園作りは、規則的なリズムと距離感を持った水、石の水路、池の秩序に基づいて形成されています。

イスラム後のイランの文化において、庭園作りの方法は、特別な精神性を有していました。庭園は長い間、イランのあちこちに作られており、楽園の象徴でした。イランの庭園には様々な種類があります。

庭園は、イランの文学や絵画、音楽、絨毯においても多く取り上げられ、それらについて非常に美しい描写が残されています。イランの芸術家は、自然の美しい具現を作品の中で描いています。おそらくイランの庭園はイラン人の精神的な信条から出てきた物質的な表れのひとつと言えるでしょう。