7月 08, 2017 16:19 Asia/Tokyo

コーラン第27章 ナムル章 蟻 第82節~第85節

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において

 

82節

「[最後の審判を前に、責め苦の]約束が彼らに下ったとき、我々は生き物を大地から現すだろう。それは彼らに向かって、人々が我々の節を信じなかったことを言うだろう。」(27:82)

وَإِذَا وَقَعَ الْقَوْلُ عَلَيْهِمْ أَخْرَجْنَا لَهُمْ دَابَّةً مِنَ الْأَرْضِ تُكَلِّمُهُمْ أَنَّ النَّاسَ كَانُوا بِآَيَاتِنَا لَا يُوقِنُونَ (82)

 

 

83節

「また、それぞれの共同体から、我々の節を否定する一団を集める。そして彼らは[互いに加わるために]そこにとどめおかれる」 (27:83)

وَيَوْمَ نَحْشُرُ مِنْ كُلِّ أُمَّةٍ فَوْجًا مِمَّنْ يُكَذِّبُ بِآَيَاتِنَا فَهُمْ يُوزَعُونَ (83)

前回に続き、この節も、最後の審判について触れ、次のように語っています。「世界の終わりと最後の審判を前に、神はこの世を去った人々の一団をよみがえらせ、大地から外に現す。この中で、彼らの一人が最後の審判を否定する人たちと話し、彼らの真理に対する頑なさを明らかにする。彼らはあれほど多くの神の節や奇跡を目にしてもなお、死して後によみがえり、復活することを受け入れようとはしない」

 

現世で、神の意志により、死人がよみがえるという問題は、これ以前にも起こってきたことであり、コーランはそれに触れています。神の預言者の一人は、神に向かって、最後の審判の場面を目にしたいと求めます。そこで神は彼を100年間死なせ、その後、よみがえらせました。コーラン第2章アルバガラ章牝牛、第259節でそのことが述べられています。また、神の意志により、イスラエルの民がいけにえにささげた牛の一部を体にくっつけることで蘇り、自分を殺した人物を明らかにした、罪のない人間のことも、アルバガラ章の第73節で述べられています。

 

原則的に、コーランが語っている預言者イーサーの奇跡の一つは、現世で死人を生き返らせることです。また、コーラン第2章アルバガラ章の第56節と243節は、以前の民たちの死体が現世で蘇ったことをはっきりと明らかにしています。これらの節も、この世の終わりに一部の人が復活する問題に触れていますが、その人の名前や特徴は明らかにしていません。原則的に、コーランの節を正しく理解するためには、これについて、確かな伝承や資料を参考にすべきでしょう。

 

コーランの節のアラビア語にある「ダーッバ」という単語は、生き物を指し、人間に関して使われることはほとんどありません。しかし、コーランの中でこの単語が使用されている例を見ると、単数でも複数でも、この単語が非常に広い意味を持ち、人間も含んでいることが分かります。コーラン第8章アル・アンファール章戦利品、第22節には、「神にとって最悪の生き物とは、真理が聞こえず、真理が語れない人、深く考えない人である」とあります。ここで言う生き物がさしているのは、明らかに人間です。考えない人が口がきけず、耳の聞こえない人になぞらえられ、非難されています。

 

さて、コーラン第27章ナムル章蟻、第82節にある、「我々は生き物を大地からあらわし、人々と語らせる」という表現については、伝承によれば、それが指しているのは、偉大な宗教指導者や重要な人物です。一部の伝承では、それはシーア派イマームアリーだとされています。また、第83節にある、“蘇る”とされる集団について、伝承では、「神は、歴史の中で現れ、この世を去っていった善良で敬虔な人々の一団を、この世の終わりで蘇らせ、救世主イマームマハディの世界統治を支援させる」とあります。一方で、人類の歴史における信仰を持たない圧政的な支配者たちの一団を蘇らせ、正義と真理に基づいた世界統治の中で、彼らに現世での懲罰が下されます。

 

82節~第83節の教え

・死人が蘇ることは、最後の審判だけでなく、現世においても過去に起こった現象であり、今後も起こる可能性があります。それを疑うことは、神の力を疑うことです。

・現世の終わりには、信仰を持つ支配者と信仰のない圧政的な支配者がともに存在しますが、敬虔な人々にとっては誇りに満ちた栄誉あるものであり、かたや不信心者や圧制者にとっては、屈辱にまみれたものとなります。

 

84節

「[審判の場に]来るまで、神は言う。『あなた方は、知識もないのに、私の節を否定したのか? あなた方は[生きている間、]何をしていたのか? 』」(27:84)

حَتَّى إِذَا جَاءُوا قَالَ أَكَذَّبْتُمْ بِآَيَاتِي وَلَمْ تُحِيطُوا بِهَا عِلْمًا أَمْ مَاذَا كُنْتُمْ تَعْمَلُونَ (84)

 

85節

「『彼らが行った圧制のために彼らに[責め苦の]判決が下った。だから彼らは何も言わない[し、言うべきことを持たない]』」 (27:85)

وَوَقَعَ الْقَوْلُ عَلَيْهِمْ بِمَا ظَلَمُوا فَهُمْ لَا يَنْطِقُونَ (85)

 

前の節では、この世の終わりに、信仰を持つ支配者と不信心の支配者が蘇らされることについてお話ししました。最後の審判を前に、人々は再び生を受けます。言い伝えからも分かるように、それは最後の審判の日の状況の一つです。その日、信仰、あるいは不信心において突出した人々、神の指導者か、神の敵であった人々は皆、蘇り、現世に戻されて、真理と偽りの間で審判を受けます。

 

この節はさらに、次のように語っています。「不信心で多神教徒の支配者たちを蘇らせることで、神は彼らに尋問する。あなたたちのわずかな知識には、多くの節やしるしを否定する力などなかったというのに、なぜ、天啓の書の節や預言者たちの奇跡を否定したのか。また、あなたたちからは多くのふさわしくない行動が見られたが、それは神の節やしるしに対する不信心や否定からくるものだった」 当然彼らは、蘇らされたときに奇跡やしるしを目にしても、それを否定したり、また言い訳をしたり、何かを言ったりする権利はありません。その結果、神の預言者やしるしに対して行った圧制ゆえに、処罰されることを受け入れます。

 

84節~第85節の教え

・この世の終わりには、最後の審判が行われ、人々の一団が神の審判で、神の指導者の一人が参加する中、裁かれます。

・十分な知識がないのに何かを否定したり、拒否したりしてはなりません。そんなことをすれば、きっと非難されるでしょう。そのため、私たちの信条は、確かな根拠と知識に基づいたものである必要があります。

・最後の審判で、圧制者には必ず、責め苦が下されます。彼らはそのとき、言うべき言葉を持ちません。