光の彼方への旅立ち、ナムル章(18)
コーラン第27章 ナムル章 蟻 第89節~第93節
慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において
第89節
「誰でも善い行いをもたらす者には、[最後の審判で]よりよい報奨がある。彼らはその日、恐れることはない。」 (27:89)
مَنْ جَاءَ بِالْحَسَنَةِ فَلَهُ خَيْرٌ مِنْهَا وَهُمْ مِنْ فَزَعٍ يَوْمَئِذٍ آَمِنُونَ (89)
第90節
「誰でも悪い行いをもたらす者は業火に投げ込まれる。彼らが行ったこと以外の懲罰が下されようか?」 (27:90)
وَمَنْ جَاءَ بِالسَّيِّئَةِ فَكُبَّتْ وُجُوهُهُمْ فِي النَّارِ هَلْ تُجْزَوْنَ إِلَّا مَا كُنْتُمْ تَعْمَلُونَ (90)
前回の番組では、世界の終わりと最後の審判について語られていました。この2つの節は、最後の審判の報奨と懲罰に触れ、次のように語っています。「神の知識と英知により、人間には、彼らが行ったことに対して責任を取ることが求められる。なぜなら神は、彼らに理性と意志を与えており、彼らは自分たちの意思によって決断し、選択するからだ」
実際、人間が現世で目にするのは、自分の行いの一部の結果のみです。現世には、人間の行いに対して完全に報奨や懲罰を与える能力はありません。しかし、時や場所の制限がない来世では、誰もが自分の行いの完全な結果とその影響を目にし、それに基づいて報奨や懲罰が与えられます。この節によれば、誰でも善い行いをした者は、それ以上の報奨を手にします。とはいえ、その善い行いが、策略や高慢さなど、行動を台無しにするような要素によって帳消しにならず、無事に目的を果たすことが条件です。
第89節~第90節の教え
・善行以上に重要なのは、策略や罪など、善い行いを帳消しにし、来世に至るのを防ぐような要素からそれらを守ることです。
・神の報奨は、人々の善い行い以上に優れたものです。一方で、神の懲罰は、罪を犯した人の悪い行いに即したものです。
第91節
「まことに私は、聖域とされるこの町の唯一の神を崇拝するよう命じられた。また、服従する者になるよう指示された。」(27:91)
إِنَّمَا أُمِرْتُ أَنْ أَعْبُدَ رَبَّ هَذِهِ الْبَلْدَةِ الَّذِي حَرَّمَهَا وَلَهُ كُلُّ شَيْءٍ وَأُمِرْتُ أَنْ أَكُونَ مِنَ الْمُسْلِمِينَ (91)
第92節
「また、コーランを[人々のために]朗誦するようにとも。そこで誰でも導かれる者を自分のもとへと導き、誰でも迷う者には、言え、『私は警告者に過ぎない』と」 (27:92)
وَأَنْ أَتْلُوَ الْقُرْآَنَ فَمَنِ اهْتَدَى فَإِنَّمَا يَهْتَدِي لِنَفْسِهِ وَمَنْ ضَلَّ فَقُلْ إِنَّمَا أَنَا مِنَ الْمُنْذِرِينَ (92)
この2つの節と、ナムル章の最終節となる次の節は、預言者とメッカの多神教徒たちの会話を述べています。預言者ムハンマドは、メッカの多神教徒たちに言いました。「もし偶像崇拝をやめないのなら、覚えておくがよい。私は、神の節を伝え、警告や忠告を与えるという自らの責務を完全に果たした。今度はあなたたちが、自分の意思によって、二者選択を行う番である。神の言葉を受け入れて導きにいたるか、、それとも真理に抵抗して迷いへと陥るか。とはいえ、どちらの道を選んだとしても、その利益、あるいは損害はあなたたち自身にかえる。あなたたちが信仰を寄せても私には何の利益もなく、あなたたちが不信心に走って否定しても、私には何の害もない。私は、神に対して自分の責務を果たすだけであり、神の命に従う。そしてカアバ神殿に置かれた石や木の偶像の代わりに、カアバ神殿とこの町の主を崇拝する。この家だけでなく、創造世界のすべては彼のものである」
この2つの節は、預言者の2つの使命に触れています。一つは、神を崇拝し、神の命を実行するという個人的な使命であり、それは他のイスラム教徒たちも同じです。そしてもう一つは、神の節を人々に伝え、警告を与えることです。預言者は、王や為政者と同じように指示を出し、人々を従わせるだけではありません。預言者は、自分が言ったことを率先して実践しなければならず、イスラム教徒の一人として、宗教の義務や教えを実践する必要があります。
第91節~第92節の教え
・神の預言者たちは、神の命に絶対的に従っていました。彼らは自分で何かを勝手に言うことも、行うこともありません。
・預言者の責務は、神の明らかなしるしや節を人々に伝えることです。それを受け入れるか受け入れないか、信仰を寄せるか不信心に走るかは、預言者には関係のないことです。
・人間は常に神のことを忘れがちです。そのため、宗教の指導者たちの責務は、人々に警告を与え、彼らが悪い行いの結果に陥るのを防ぐことです。
第93節
「[預言者よ、]言え、『感謝や賞賛は神のものである。神はまもなく、自らのしるしをあなた方に示すだろう。あなた方はそれを知るようになる。神はあなた方が行うことを知っておられる』」 (27:93)
وَقُلِ الْحَمْدُ لِلَّهِ سَيُرِيكُمْ آَيَاتِهِ فَتَعْرِفُونَهَا وَمَا رَبُّكَ بِغَافِلٍ عَمَّا تَعْمَلُونَ (93)
ナムル章の最後の節となるこの節は、神への感謝で終わっています。感謝は、人間が神へと導かれる源となるコーランのような偉大な恩恵のためであり、人類が幸福にいたることを考える、心優しい教師のような預言者の存在に対するものです。
この節は続けて、次のように語っています。「未来の人々は、神の知識や力に関して多くのしるしを目にするだろう。そのしるしは、世界で知られる最小の存在から、最大のもの、はるか遠くの惑星にも見られるものであるが、人々はそれぞれに異なる見方を持っている」
手術室で内臓にメスを入れて肝臓を取り出し、その細部を学生のために説明する医師も、レバーを焼くためにナイフでそれを切る肉屋も、どちらも同じ作業をしていますが、その見方や目的が異なっています。創造世界を創造されたものだと考えれば、私たちが目にするものには皆、創造主である神のしるしがあります。そしてそれを目的のないものと考えれば、その創造主を知ることはできなくなるでしょう。それは人間の考え方や行動に大きな影響を及ぼします。
第93節の教え
・コーランと預言者は、2つの大きな恩恵であり、常にそのことに感謝すべきでしょう。
・これまで、私たちが神のしるしとして目にしたものは、ほんの一部に過ぎません。人類の科学の発展により、創造世界における神の偉大さや力の新たなしるしが明らかになるでしょう。
・神から猶予が与えられたからといって、それを神が知らないしるしだと考えるべきではありません。神は常に私たちの行いを観察しています。