魂あるいは精神性とその概念
前回は、人間の体の健康の分野では大きく進歩しているものの、健康における精神的な側面とその影響についてはそれほど注目されていない事についてお話しました。このことは、精神性が正しく理解されていないことに起因します。そこで、今夜は魂、あるいは精神性とその概念について考えることにいたしましょう。
精神性・スピリチュアリティという言葉は、人々の間に普及していますが、興味深いことに、魂や精神性に対しては、誰もが自分なりの捉え方で解釈しており、このことをめぐる一致した見解が存在しないことです。
一部の人は、精神性を宗教と一致したものと見なしています。しかし、一部の人々はこれとは正反対に、精神性とは信仰心を持つ人、或いはそうでない人も含めた全ての人にとって、彼らの持つ世界観や人生哲学によって様々な意味を持つと考えています。さらに、中には精神性は宗教を伴わなければ、その本当の意味を失うと断言する人もいます。
また、精神性とはある個人的な体験であり、その形は人によって異なると考える人もいます。ほかにも、精神性には水平と垂直という2つの側面がある、という捉え方も存在します。垂直な側面とは、神や、無限大の力との関係を反映しており、水平な側面は、他人や自然界と私たちのつながりを反映するもの、などと定義されています。
しかし、イスラムの視点では、宗教信仰と精神性は切り離せるものではなく、精神性とは神の命に従い、宗教を信仰することによってのみ、手に入れられると見なされています。神を思い起こすことは、精神性を作り出すための最高の状態です。
人間が精神性を追求するためには、必ず宗教的な行動計画が必要になるとともに、日増しに宗に頼ることへの必要性が増していきます。このため、イランイスラム共和国の創始者ホメイニー師は、偉大な宗教学者、宗教哲学者としての観点から、精神性とは、強い情熱や魅力と同時に、論理や正当性を人間の中にもたらす行動や性質であり、それによって人間は、世界の創造主である唯一の神へと導かれると考えていました。
精神性のある人間は、体の健康維持に努め、身体面での苦痛を遠ざけようとするのと同時に、自らの心の内面においても、魂の健康を追求しています。
精神性を獲得し、有意義な人生を送るためには、まず自分の生活面での行動を、ある統一の好ましい目的に向けて調整する必要があります。イスラムでは、崇高なる神は全ての存在物の源であり、神に近づく事は人間が創造された本来の目的とされています。このため、人間の活動や行動の最終目的は、人間として最高の極致、すなわち神に近い可能な限りの最高点に至ることとされています。ですから、意義ある人生を送るための第一歩は、まず神を知ることなのです。
神は、宗教的な文化における基軸であり、時には言葉によって唱えられたり、或いは行動により敬愛されたりします。即ち、信心深い人は、日常生活においても神を思い起こし、何か行動を起こしたり、決断を下す際にも神の事を考えます。そして、宗教的に好ましいか否かや神が喜ぶかどうかを視野に入れて、神が満足する行動をとり、神に背く行いを回避します。
このような人は、他人との付き合いにおいても神の満足を考えており、他人と協調し、責任ある行動をとります。そして、他人によい振る舞いをし、他人から受けた恩に、よいものでお返しをします。
実際に、精神性に即した生活は、神を中心とした考え方に基づくものです。精神性にあふれる人は、こうした道を歩む中で、常に自らの信じるものを、宗教的な行為や基本的な価値観、生活様式において示そうとします。また、自らの行動の全てにおいて誠意を示し、自分の内面と外見の全てから、神以外の一切の要素を排除するのです。
また、精神性のある人は、常に自分自身についての認識を深めることに努め、自分の内面に発生する不当で許されない欲求と戦います。これこそはまさに、イスラムの文化で「自分自身の内面との戦い」とされているものです。
宗教的な見解では、人間にとっての最大の敵は、その人自身の内面であり、これとの戦いに立ち上がるべきだとされています。イスラムの預言者ムハンマドは、人間がその内面に対峙することについて次のように述べています。
“あなた方にとって最大の敵は、あなた方自身の内面であり、それはあなたのすぐそばにいる。このため、精神性にあふれた人間は、自分の内面を見つめる。だが自分の内面的な欲求と戦い、自分の内面を見つめることで、その人がバランスを崩すことはなく、またその人の自尊心や尊厳が失われることもない”
次回もどうぞ、お楽しみに。