光の彼方への旅立ち、アンキャブート章(10 )
コーラン 第29章 アンキャブート章 蜘蛛 第46節~第49節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第46節
「また、啓典の民と話し合う際には、最高の方法を用いなさい。ただし、彼らのうち圧制者は別である。[彼らに]言え、『私たちは、私たちとあなた方に下されたものを信じる。私たちの神とあなた方の神は同じであり、私たちは神に服従する』と」(29:46)
وَلَا تُجَادِلُوا أَهْلَ الْكِتَابِ إِلَّا بِالَّتِي هِيَ أَحْسَنُ إِلَّا الَّذِينَ ظَلَمُوا مِنْهُمْ وَقُولُوا آمَنَّا بِالَّذِي أُنزِلَ إِلَيْنَا وَأُنزِلَ إِلَيْكُمْ وَإِلَهُنَا وَإِلَهُكُمْ وَاحِدٌ وَنَحْنُ لَهُ مُسْلِمُونَ(46)
前の節では、神を否定する不信心者や多神教徒との議論の方法について触れていました。この節は、キリスト教徒やユダヤ教徒といった啓典の民との議論の方法について触れています。まずは概要として、次のように語っています。「啓典の民と議論する際には彼らに敬意を表し、言葉を話す際には友好的で礼儀正しい口調を心がけなさい。彼らにあなたたちの言葉が届き、真理を求める人々がイスラムに魅了されるよう、論理的に話し、優位に立とうとしてはならない」
とはいえ、当然のことながら、礼儀正しく相手を尊重しながら話そうとしない人は例外であり、このような高慢な人間に礼儀正しく接すれば、自分のことを卑下することになります。
この節は続けて、啓示宗教の間の共通性に注目する必要性を強調し、このように語っています。「対立から始めるのではなく、話し合いの中では、神と啓典への信仰である、啓示宗教の信者の共通性から始めるよう努めなさい。そして、彼らに対し、神と神の指示に服従するよう求めなさい」
第46節の教え
● イスラム教徒以外の人たちとの話し合いの中では、誹謗や嘲笑、侮辱を控え、論理に基づき、改善を目的にしましょう。イスラム教徒に対しても、これらすべての原則が守られるべきです。
● イスラムは、啓示宗教の信者たちの間の正しい話し合いや意見交換、それも共通点を軸にしたものを推奨しています。
● 神と預言者たちを信じるだけでは十分ではありません。彼らの指示に服従することも必要です。
第47節
「このようにして、我々は汝に啓典を下した。そこで、我々から啓典を与えられた人々は、それを信じる。また彼ら[多神教徒]の中にも、それを信じる人々がいる。不信心者以外に我々の節を否定する者はいない」(29:47)
وَكَذَلِكَ أَنزَلْنَا إِلَيْكَ الْكِتَابَ فَالَّذِينَ آتَيْنَاهُمُ الْكِتَابَ يُؤْمِنُونَ بِهِ وَمِنْ هَؤُلَاء مَن يُؤْمِنُ بِهِ وَمَا يَجْحَدُ بِآيَاتِنَا إِلَّا الْكَافِرُونَ(47)
神は、ムーサーとイーサーに啓典を下したように、イスラムの預言者にもコーランを下しました。全ての預言者の啓典の源は、神の言葉です。そのため、それらの間に矛盾は存在せず、イスラム教徒が以前の預言者たちの啓典に信仰を寄せたように、他の宗教の信者たちに対しても、コーランを信じ、それに敬意を払うことを期待しています。なぜなら、その知識は総体的な原則という点で、それまでの預言者の啓典の知識と合致したものであるからです。
この節は続けて、次のように語っています。「啓典の民だけでなく、多神教徒や偶像崇拝者も真理を求めていれば、コーランに信仰を寄せ、イスラムを信じる。真理を理解しながら、さまざまな理由によってそれを受け入れようとしない頑なな不信心者だけがそれを否定する。とはいえ、そうであっても、コーランの正しさが損なわれることはない。部屋の窓辺で分厚いカーテンを引き、太陽の光が部屋に差し込むのを防ぐ人のように。この人の行いが太陽の偉大さを損なうことはない。それどころか、光の輝きを奪われ、自分が損をするだけである」
第47節の教え
● コーランは、以前の預言者の啓典に敬意を払うと同時に、他の宗教の信者たちにも、イスラムを勧めています。
● 特定の宗教や教えに対して偏った考え方を持たず、次の預言者が出現すれば、その預言者と啓典に信仰を寄せる人々こそ、神の服従者であり、彼らは以前の預言者の教えだけを頑なに信じる人ではありません。
第48節
「また汝はこれ以前にいかなる書物も読まず、自分の手で何かを書いたこともなかった。そのため、否定する人々は疑いを抱いた。」(29:48)
وَمَا كُنتَ تَتْلُو مِن قَبْلِهِ مِن كِتَابٍ وَلَا تَخُطُّهُ بِيَمِينِكَ إِذاً لَّارْتَابَ الْمُبْطِلُونَ(48)
第49節
「だがそれ[コーラン]は明らかなしるしである。知識を与えられた者の胸の中にあり、圧制者を除いて、我々の節、しるしを否定する者はいない」(29:49)
بَلْ هُوَ آيَاتٌ بَيِّنَاتٌ فِي صُدُورِ الَّذِينَ أُوتُوا الْعِلْمَ وَمَا يَجْحَدُ بِآيَاتِنَا إِلَّا الظَّالِمُونَ(49)
コーランの節は、以前の啓典の内容と矛盾しないものである上、この節は、コーランが本物であることの別のしるしに触れ、次のように語っています。「イスラムの預言者は、コーランが下される以前、誰かから教わったこともなければ、勉強部屋に通ったこともなかった。書物を読んだことも、何かを記したこともなかった。彼の導きを否定しようとする者は、疑いを抱き、コーランは以前の書物を研究したものの結果であり、彼は自分は預言者だと嘘を言っている、などと言ってはならない」
読み書きを知らない人間が、当時のアラブ人が誰も知らず、その時代に広まっていた多くの文化に矛盾するような高い知識を示すこと、それ自体が、コーランの奇跡を示す根拠のひとつです。そのためこの節は、次のように続けています。「コーランが本物であることのしるしは、その節の中に隠されている。知識を持つ人々はそれを悟る。自分自身に圧制を行う人を除いて、それを否定する者はいない」
第48節~第49節の教え
● 時に神の意志により、読み書きを知らない人が、人類の文化を根本から覆す場合があります。また反対に、学歴の高い人が、宗教的な精神性を否定し、人類社会を逸脱へと導くこともあります。
● 本当の意味で知識を持つ人々は、コーランが本物であることを全身で理解します。