10月 03, 2018 17:51 Asia/Tokyo

コーラン 第29章 アンキャブート章 蜘蛛 第67節~第69節


慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において


第67節

「我々が[メッカを]安全な聖域にしたのを彼らは見なかったのか。周囲から人々が拉致されているのに。彼らは偽りのものを信じ、神の恩恵を信じないのか?」(29:67)

( أَوَلَمْ يَرَوْا أَنَّا جَعَلْنَا حَرَماً آمِناً وَيُتَخَطَّفُ النَّاسُ مِنْ حَوْلِهِمْ أَفَبِالْبَاطِلِ يُؤْمِنُونَ وَبِنِعْمَةِ اللَّهِ يَكْفُرُونَ (67

 

強奪や略奪がアラブ人の間に広まり、部族同士が互いを侵略しあい、一部の人々は殺害され、一部の人々は捕虜にされていました。この中で、神はメッカを安全な町とし、その住民が大切にされ、誰もメッカを攻撃する勇気をもたないようにしました。象に乗っていたアブラハの軍勢の攻撃の中では、神の奇跡により、彼らはメッカの町に入る前に、空から鳥たちに襲われて消滅しました。この節は、メッカの多神教徒に次のように語りかけています。「神はそのような大きな恩恵をあなたたちに与え、安寧の中で暮らせるようにしてくださった。それなのになぜ、あなたたちは偶像を崇拝し、唯一の神を信じるのではなく、偶像を追い求めるのだろうか?あなたたちの行いは、神の恩恵に対する背信以外の何ものでもない」

 

第67節の教え

●    安全は、神の偉大な恩恵のひとつです。それに感謝することは、あらゆる多神教信仰や不信心から遠ざかることです。
●    神の恩恵を思い起こさせることは、人々を唯一神信仰へといざなうきっかけになります。

 

第68節 
 
「また、神について嘘を言い、真理が下されたときにそれを否定する人以上の圧制者がいるだろうか?不信心者の居場所は地獄ではないのか?」(29:68)

(68)وَمَنْ أَظْلَمُ مِمَّنِ افْتَرَى عَلَى اللَّهِ كَذِباً أَوْ كَذَّبَ بِالْحَقِّ لَمَّا جَاءهُ أَلَيْسَ فِي جَهَنَّمَ مَثْوًى لِّلْكَافِرِينَ 

 

人類の文化において、圧制は社会関係の中で解釈されます。それによれば、圧制者とは、他人の権利を踏みにじる人のことです。一方で、宗教の文化では、この種の圧制も強く非難されていますが、それ以上に重要な、多くの別の圧制の根源となる圧制について触れています。もし人間が偶像やその他のものを神と同等に据えれば、それは神に対して圧制を加えたことになります。なぜなら、神と同等にはないものを、同等に据えているからです。また、神の預言者を嘘つきと呼び、その使命を否定する人も、預言者たちに圧制を加えたことになります。なぜなら、人類を導く上での預言者たちの弛まぬ努力を無視し、この大きな恩恵への恩を忘れているからです。

普通の人への圧制でさえ、最後の審判での厳しい罰が待っているとき、神やその預言者に対する圧制は、当然、非常に厳しいものとなるでしょう。とはいえ、多神教信仰は、偶像崇拝、権力主義、欲望への追従、拝金主義など、さまざまな形を持つ可能性があります。そのため、敬虔な人間も、このような多神教信仰の危険に晒されており、人間を神から遠ざけるものから心を清める必要があるのです。

第68節の教え
●    最悪の圧制とは、真理の言葉を否定し、偽りの言葉が広まるような文化的な圧制です。真理を否定する圧制的な人間は、当然、それに従うことはありません。
●    宗教に何かを加え、自分の好みを宗教的なものに見せることは、宗教への冒涜、神への中傷です。私たちは、宗教を自分の好みや理想に従わせようとするのではなく、その本来の教えに従うべきでしょう。  

           

第69節
「我々の道において努力する者たちは、間違いなく、我々の道へと導かれるだろう。まことに神は、善を行う人々と共におられる」(29:69)

(69)وَالَّذِينَ جَاهَدُوا فِينَا لَنَهْدِيَنَّهُمْ سُبُلَنَا وَإِنَّ اللَّهَ لَمَعَ الْمُحْسِنِينَ

 

アンキャブート章の最終節となるこの節は、神の道における努力、戦いについて述べています。それには敵との戦いの他、神の宗教を広めるための努力も含まれています。イスラムの文化では、神の道における戦いには、外部の敵との戦いと共に、内面の敵との戦いも含まれます。敬虔な人間は、神の宗教の敵と戦い、この道において身を捧げる覚悟を持たなければなりません。また、自分の欲望に負けないよう、不当な欲求と戦わなければなりません。

この節が強調しているのは、神の道における戦いと、神のための戦いです。宗教の敵と戦ったとしても、名声を得ること、あるいは戦利品や現世の利益を追い求める人がいます。そのため、神の道における戦いや努力以上に重要なのは、純粋な心でそれを行うことです。もし純粋な心が伴っていなければ、戦争において命を落とすことに価値はなく、損害を蒙るだけです。努力や戦いが神の道におけるものであれば、この節によれば、神もまた、導きと支援を約束してくださいます。当然のことながら、何らかの目的を遂げようとするときには、常に、多くの問題や障害が現れ、それらへの対処法を知ること、それらを克服することが困難な場合もあるでしょう。そのため神は、私がそのような困難の中で、あなたたちが正しい道を見出し、問題を克服できるように助けようと約束しています。

 

第69節の教え
●    神は、全ての人を導く他に、純粋に努力する人を特別に導いてくださいます。とはいえ、その第一歩はその人自身が踏み出す必要があります。
●    さまざまなことを行う際、もし純粋な動機と目的をもって始めれば、神は私たちを決して見捨てず、成功へと導いてくださいます。
●    神の道を歩み、努力すれば、神は目標に到達するまでその人の手を握り、助けてくださいます。
  
 

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