コーランが教えてくれる人種間共存の方法
13世紀のイラン詩人モウラーナー(ルーミー)は、イスラム教の預言者ムハンマドの説話を引いて、「人は他人の欠点は明朗に語るが、自分の欠点には気づかない」と語りました。
神はコーラン部屋章第11節で次のように語っています。
「信仰を得た者よ、集団が他の集団を嘲笑してはならない。嘲笑された方が嘲笑した方よりも優れているかもしれない。女性たちが他の女性たちを嘲笑してはならない。嘲笑された女性たちが嘲笑した女性たちよりも優れているかもしれない。お互いの欠点をあげつらってはならない。無礼なあだ名で相手を呼んではならない。信仰を得た後に、他人を下品なあだ名で呼ぶのは悪い兆候である。こうした行為を懺悔しない者はならず者である」
人間や人間社会にとって不健全な状態とは、人々が他人を嘲笑するのに慣れ切っていることです。こうした人々は、自分の欠点には気づかないまま、他人の欠点を見つけると、知ってか知らずかそれを指摘することに熱中し、自分の欠点を隠そうとします。あるいは、他人に欠点が見つからない場合でも、自分と違うことをあげつらって侮辱するのです。それゆえ神はこのコーランの節で、人間を教育し、共存を手助けするために、お互いを嘲笑しないよう語っているのです。
他人を嘲笑することは、どのような敵意よりも悪いことです。単に嫌われるだけであれば、その人の悪い性格によるものですが、嘲笑は人間としての存在すべてを弄ぶものだからです。
もうひとつ重要なのは、他人の粗探しをしないということです。預言者ムハンマドは次のように語っています。
「自分の欠点を自覚し、他人の粗探しをしない者に幸あれ」
13世紀のイラン詩人モウラーナー(ルーミー)は、このムハンマドの言葉を引いて、
「人は他人の欠点は明朗に語るが、自分の欠点には気づかない」
と語っています。
神がコーランのこの節で訴えたもうひとつの点は、他人を下品なあだ名で呼ばないということです。その理由は、人が神の僕として美しい名前を授かったにもかかわらず、下品な名前で呼ばれることは醜悪なことだからです。
この節の終わりには、仮にこうした行為をし、その過ちを自覚するのなら懺悔するよう書かれています。もし懺悔をしないのなら、その人物はならず者であり、ならず者とは自分の信仰を削ぎ落してしまう者のことです。(コーラン雌牛章・第254節)
今日人々の間で流行っているジョークには、特定の民族や集団を嘲笑するものがあり、それらは多かれ少なかれ神が禁じるものです。ジョークや笑い話の大原則は、誰も不愉快にさせないことです。特定の集団を侮蔑し、それに少しでも笑いが伴うなら、それは後に多くの不快感や敵意をもたらすことになります。
知っておかなければならないのは、神が個人や集団の過ちを諫めることがあれば、それは彼らが嘲笑されるためではなく、他者もそれを教訓とし学ぶことが目的だということです。
出典:エラヒー・ゴムシェイー著『コーラン365日』