ラアス・アルフサインモスクと、サイイダ・ザイナブモスク
今回は、モスクが持つもう1つの社会的な機能である、信者同士に面識を持たせ友情を育むという側面についてお話し、後半ではエジプトの首都カイロにある2つの大型モスク、すなわちラアス・アルフサインモスクと、サイイダ・ザイナブモスクをご紹介することにいたしましょう。
交友関係の形成にも大きな役割を果たすモスクの機能
前回の番組でお話したように、モスクは古い時代から神を崇拝し、称えるための場所とされているほかに、社会的な問題にも注目していました。信者たちが集まり、互いの近況を確認し情報を交換し合うといったことは、モスクが持つ幅広い役割のごく一部に過ぎません。
人間同士の社会的な関係の中で最も重要なのは、友人関係です。多くの伝承においては、本当の意味で好ましく、親しい友人を見出す場所の1つはモスクとされています。このため、モスクの社会的な特徴の1つとして、礼拝者たちに善良で選び抜かれた人々と交友関係を持たせる事があげられます。
モスクは、宗教的、文化的な拠点であり、そこには礼拝をする人々が出入りします。そして、こうした人々との交友関係は、生活にもプラスの効果をもたらします。
モスクに関する伝承においては、モスクの社会的な特徴が強調されており、そうした特徴として、信徒たち同士がモスクで知り合い、互いの近況を確認しあうこと、そして宗教上の兄弟の問題を解決し、ニーズを満たし、そして、最終的に宗教で結ばれた深い友人関係が形成されることが挙げられます。
善良な人々との付き合いがある人は、邪道に外れることがありません。モスクは信者たちに対し、宗教や神への服従の度合いの点から、互いに似通っている人々と知り合うチャンスを与えます。
それではここからは、エジプト・カイロにある2つの大きなモスクである、ラアス・アルフサインモスクと、サイイダ・ザイナブモスクをご紹介してまいりましょう。
ラアス・アルフサインモスクとその起源
カイロ市内にあるモスクの中で、最大規模とされるモスクの1つに、ラアス・アルフサインモスクがあり、このモスクは地元のエジプト人の間では、マシュハドラアス・アルフサイン、即ちホサインの頭が埋葬されている聖地として知られています。多くの歴史家の間では、7世紀から8世紀にかけて栄えたイスラム史上初の世襲王朝であるウマイヤ朝の暴君ヤズィードが、遠征先でシーア派3代目イマーム・ホサインに勝利した証として、イマーム・ホサインの首をはね、各都市の住民に恐怖感を起こさせるよう、その頭部をさらし物にして回るよう命じたと考えられています。イマーム・ホサインの頭(こうべ)をさらし物として各都市の間を練り歩くというこの行動の最終地点は、エジプトと現在のシリアの中間にあり、(現在のシオニスト政権イスラエルの領内にある)地中海に面した港湾都市アシュケロンでした。
アシュケロンの首長は、イマーム・ホサインの頭を埋葬しました。その後、エジプトでシーア派の一派であるイスマーイール派が建国したイスラム王朝であるファーティマ朝が成立した時、詳しい調査の後に、特別な儀式を実施する中で、それはアシュケロンからカイロへと運ばれました。そして、さらに特別な儀式のもと、裸足のイスラム法学者や有力者、軍人らによりこのモスクに持ち込まれ、ここに改めて埋葬されたとされています。現在、このモスクはエジプトのシーア派教徒、スンニー派教徒を含めた、数百万人ものイスラム教徒の巡礼、礼拝の場となっています。
ラアス・アルフサインモスクは、ファーティマ朝以後も、さまざまな時代に改修・拡張工事が施されました。現在のメッカの方向を示す壁がんは、赤と白の石でできています。このモスクには、3つの扉があり、そのうちの1つは西側に、もう1つはメッカの方角にあり、そしてもう1つは礼拝前の沐浴場所のある境内に向かって開く仕組みになっています。
サイイダ・ザイナブモスクについて
ここからは、エジプト・カイロにあるもう1つのモスク、サイイダ・ザイナブモスクをご紹介してまいりましょう。
このモスクは、イマーム・ホサインの妹で、シーア派初代イマーム・アリーの娘にあたる女性ゼイナブにちなんだモスクです。この女性は、イマーム・ホサインが殉教し、長期間にわたる抑留生活を送った後にも生きのびました。この女性は、尋常ではない耐え難いほどの辛酸を嘗め尽くしたとされ、すでによく知られているように、西暦680年のイラク・カルバラーでのイマーム・ホサインの殉教から1年後にこの世を去っています。しかし、ゼイナブの埋葬場所をめぐっては、現在も有識者らの間で意見が対立しています。
一部の歴史家の見解では、兄イマーム・ホサインの殉教後にゼイナブがメディナに存在していたことから、人々が当時のウマイヤ朝の暴君らに反対して立ち上がったとされています。このため、メディナの支配者はウマイヤ朝の為政者であるヤズィードに書簡をしたため、メディナの現状に加えて、ゼイナブが人々を扇動していることについて説明しました。ヤズィードは、この書簡に対する返書において、ゼイナブをメディナから追放するよう命じています。
このため、ゼイナブは預言者一門の友人として知られていたエジプトに渡り、その地で暮らした後、西暦681年にこの世を去りました。この歴史的な伝承によれば、ゼイナブは現在のサイイダ・ザイナブモスクのある場所に埋葬されたと言われています。
一部の歴史家によれば、このモスクは西暦703年に初めて、ゼイナブの埋葬場所として建設されたといわれています。今から900年ほど前にカイロを統治していた支配者ファフロッディン・サ・ラブ・ジャアファリーが、この場所に建物を建設し、今からおよそ500年前、即ちオスマン朝の第10代君主スレイマーン1世の時代に改修工事が行われています。
サイイダ・ザイナブモスクはその後、1760年にエジプトの支配者アブドッラフマーンキャドホダーにより、再建されました。この人物は、巡礼所や文化関係の施設の再建や拡張を非常に重視していたということです。さらに、1795年には、モスク内のザイナブの埋葬場所とされる箇所を囲む特別の柵が、銅製のものに取り替えられています。
1880年には、当時の総督の命令によりドームやミナレットなどの改修工事が行われ、1902年に終了しました。
既にお話したように、イマーム・ホサインの妹であるゼイナブの埋葬場所については意見が分かれています。しかし、最も有力な説によれば、この女性は現在のシリアの首都ダマスカスの南部に埋葬されているということです。また、一部の歴史家は、彼女の埋葬場所がただいまご紹介したサイイダ・ザイナブモスクのある地区であるとしています。さらに、もう1つの説によれば、ザイナブはメディナ市内の墓地に埋葬されているといわれています。
しかし、重要なことは、これらの場所が神の名を思い起こさせる場所であり、預言者一門を敬愛する人々が純粋な意思表示をもって、そこの埋葬されている人物への思い入れを表現し、預言者とその一門との間に、新たな契約を交わす場所であるということです。
18世紀のイラクの学者ムハンマド・バフロルオルームは、その著作において次のように述べています。「イマーム・ホサインの妹であるゼイナブの旅路の最終地点が、シリア・ダマスカスであれ、はたまたエジプトであれ、それほど違いはない。ゼイナブという太陽がどこで沈んだかなど重要ではない。大切な事は、その太陽が歴史を通して決して沈むことはなく、常に人々の心の中で光り輝く存在であるということである」
次回もどうぞお楽しみに。