7月 10, 2018 22:14 Asia/Tokyo
  • パサルガードの庭園
    パサルガードの庭園

前回は、イラン人は自然を大切にしてきたため、庭園を、理想的な天国のように美しいものとして創り、その際に、イランの自然と宗教的な教えの影響を受けました。その影響は非常に強く、今日、イランの庭園において、自然と文化的な要素を分けて考えることはできません。イランの庭園作りの重要性と歴史に注目し、今回は、イランの庭園作りの歴史についてみていくことにいたしましょう。

古代を描いたイラン人の画家たちは、庭園におけるピーシュダーディー朝時代の伝統や追悼の儀式、戦闘について描いていました。

 

イランの庭園作りは長い歴史を有しています。この芸術のしるしは、歴史書や碑文、建築の中に見ることができます。古い資料では、イランで最初に庭園を作ったのは、ピーシュダーディ朝の神話上の王たちだとされています。このような言い伝えの例は、フェルドウスィーの代表作であるシャーナーメ、パフラヴィー語の文書、ゾロアスター教の聖典アヴェスター、その他の歴史書や地理書の中に見られます。例えば、イブン・バルヒーの記したファールスナーメでは、ピーシュダーディ朝の8代目の王であったマヌーチェフルについて、彼は庭園を作り、その中に様々な種類の花や植物を植え、それをブースターン・花園と名づけた最初の人物だったとあります。さらに、その時代を描いたイラン人の画家たちは、庭園におけるピーシュダーディー朝時代の伝統や追悼の儀式、戦闘について描いていました。

タフテ・ジャムシード(ペルセポリス)

 

メディア王国、そしてアケメネス朝の時代、イランの壮麗な庭園は皆、王様や首長、長老たちのものだったと言われています。メディア王国やアケメネス朝の庭園作りに関する情報はほとんどありませんが、宗教的、歴史的な文書では、これらの庭園の形や様式に関する記述が見られます。メディア人の首都であった、現在のハメダーンを示すヘグマターネは、さわやかな気候により、美しい庭園を有していました。バビロニア帝国のボフトルナスル2世は、メディア国王の娘を妻にしましたが、彼女がイランの領土を離れて寂しそうにしていたため、彼女を慰めるために、バビロニア帝国の庭園をイランの様式によって建設しました。これらの庭園は、石の柱の上にありました。

 

イラン南部ファールス州にあるタフテ・ジャムシードとパサルガードに関する資料などによれば、かつてアケメネス朝時代の重要な町や建造物の周囲には、庭園が存在していました。タフテ・ジャムシードにあるエラム朝の壁のレリーフには、これらの庭園の一部について触れられています。アケメネス朝時代の岩のレリーフも、イランの庭園が幾何学模様をしていることを物語っています。背の高い杉の木やハスの花が浮き彫りのデザインに見られることは、庭と建物の設計の根本が同じであることを示しています。考古学はさておき、様々な資料でも、この時代の庭園に関する説明が提示されています。古代ギリシャの歴史家、クセノポンは、アケメネス朝の王は、どこにいようと、どこに行こうと、そこで大きな庭園を持ちたいと考えているとしています。クセノポンはまた、紀元前401年に亡くなったキュロス王が建設し、自分の手で木を植えたとされる庭園についても触れています。

アケメネス朝の最初の都であったパサルガード

 

アケメネス朝の最初の都であったパサルガードは、旅行記の中で、宮殿と庭園がある場所であり、チャハールバーグと呼ばれるイラン式庭園の最初の例であるとされています。様々な資料では、パサルガードはたくさんの庭園のある都だとされ、そこには広い庭園を含む敷地内に、周囲が開けた宮殿があるとされています。一部の研究者は、チャハールバーグは、アケメネス朝の人々が考案したデザインで、パサルガードで初めて実現されたと強調しています。パサルガードの庭園は、イラン式の庭園の特徴を有し、その後の庭園作りに影響を与えました。イスラム時代の著名なチャハールバーグは、この時代のデザインの影響を受けています。この庭園の中を水が流れる方法、石でできた側溝、一定の距離を保って存在する小さな池、これらは皆、古代イラン人の庭園作りにおける技術的な原則の利用と建築を示しています。

 

紀元前250年から紀元後226年までのパルティア帝国時代からは、当時の庭園を示す遺物は残っていません。しかし、パルティア帝国の都にある古代遺跡を見れば、この町がチグリス川の傍らの庭園を含んでいたことが分かります。それは、サーサーン朝時代の庭園作りに影響を及ぼしました。イスラム初期の一部の文書では、サーサーン朝の宮廷の壮麗さと共に、当時の美しいじゅうたんのことが書かれていますが、そのじゅうたんの基本的なデザインは庭園でした。その中でも最もよく知られているのは、池や小川、春の美しい花や木がある庭園がデザインされた、バハーレスタンと呼ばれるじゅうたんです。

 

庭園は、イスラムの教えにおいて、古いルーツを持っています。コーランで述べられている天国の楽園、つまりフェルドゥースが庭園を指していることは、イスラムの教えにおける庭園の価値の高さを物語っています。イスラム初期、庭園作りは、サーサーン朝時代ほど栄えてはいませんでしたが、なおも継続され、バグダッドやネイシャーブール、シーラーズといった一部の都市では、イラン式の庭園の模範が建設されました。その例は、歴史書の中に見ることができます。

 

10世紀から11世紀のガズニー朝時代にも、サーサーン朝やイスラム初期の方法により、庭園が建設されていました。書物ベイハッギーの歴史の中では、この時代の庭園について記されています。セルジューク朝時代には、大規模な都市開発が行われ、様々な施設や建築作品、モスク、神学校、隊商宿、宮殿などの建設が注目され、特にイスファハンでの庭園作り芸術が目覚しい発展を見せました。セルジューク朝時代のイスファハーンで最も著名な庭園の一つは、カーラーン庭園でした。この庭園については、イランの著名な詩人、ハーフェズも詩の中で歌っています。その後、11世紀から13世紀のホラズムシャー朝時代にヘラートやハーラズムといった町は、庭園作りにおいて繁栄を遂げました。こうしてヘラートの町は、モンゴル族の襲撃を受けるまで、豊かな水の流れる大きな庭園を有していました。

 

13世紀のモンゴル族の襲撃により、ボハーラー、ハーラズム、ネイシャーブールといったイランの多くの都市が破壊され、そこにあった庭園もしばらくの間、放置されました。そうした中で、1258年から1336年のイルハン朝時代、商人たちによって中国の画法がイランに入り、イラン人の画家がそれを、イラン・イスラム文化と融合させ、この芸術を活用しました。こうして次第に、庭園の要素を伴った絵画が描かれていました。その後のティムール朝とサファヴィー朝の時代、庭園を描いた絵画が生まれました。歴史書によれば、14世紀のティムール朝の時代、特にサマルカンドで、数多くの庭園が設計、建設されました。ティムール朝の庭園は、世界で最もよく知られた庭園となっており、この時代は、イランの庭園作りの歴史において、最も重要な時代です。この時代の美しい庭園は、庭園を最大のモチーフにしていたベフザードやシャーモザッファルといった画家たちに影響を与えました。

タージマハルの庭園

 

イランの庭園作りは、ティムール朝の時代、カシミールなどの地域にある庭園やタージマハルの庭園のデザインに直接、影響を及ぼしました。イランの研究者、パルヴィーズ・ヴァルジャーヴァンドは、ティムール朝時代の庭園作りは、イランの庭園の全ての要素を融合させたものだとし、特にサファヴィー朝と現代にも大きな影響を与えているとしています。