8月 27, 2019 12:41 Asia/Tokyo
  • イラン南西部ファールス州での遺跡・ペルセポリス
    イラン南西部ファールス州での遺跡・ペルセポリス

前回まで2回にわたって文化遺産の定義と、物的、知的遺産の面からのイランの文化遺産の分類、そしてそれらに対する長期間の略奪についてお話してきました。イランの名声について知るためには、何よりもまずそれらの文化的、アイデンティティ的な歴史を知ることが必要となってきます。この点から、イランの紆余曲折の歴史をお話し、アーリア人のイラン高原への集団移住について、概略的にご説明してまいりました。今回もその続きをお話したいと思います。

パールス人の動向と世界帝国アケメネス朝の成立

後の紀元前1千年紀に初めて最も強力な王朝を築いたパールス人は、まず現在のイラン北西部・オルーミーイェ湖周辺に居住してから、イラン南部のファールス地方に移住し、メディアの王朝に従属する形で政権を築き、アケメネス朝の下地を作りました。メディア人とパールス人は、イラン高原に移住した後、当時の一般的な方法と違い、先住民族と文化的な交流や協力を行いました。アケメネス朝の中心地だったパールス人の地は、当初は文明化されておらず、また先住民族の生活の中心地でもありませんでした。しかし、ペルセポリスとして知られるイラン南部の遺跡タフテ・ジャムシードから発見された、楔形文字による碑文や陶器によると、この地は文明の中心地となり、シリアの沿岸部からインドまでに及んでいたということです。

パールス人はその後しばらく経ってから、メディア人を征服し、イラン高原で数千年に渡って栄えていた複数の原始的な文明を統一しました。この統一された文明は、チグリス・ユーフラテス川流域、小アジアや中央アジア、インダス川流域にまで到達し、実際、アテネ、スパルタ、中国以外の全ての世界の文明国家を従えることとなったのです。これらの土地の征服は、軍隊によってのみ行われたのではなく、多くの場合においてイランの(パールス人の)軍隊は解放軍として入り、地元の部族と協力してこの地を従えました。イランの民族はアケメネス朝の創設者、運営者として、当時の全ての文明世界の各地に離散し、この時期にはイラン民族の移動が最も盛んになりました。アケメネス朝は、イラン南部のシューシュから小アジアのリディアまでに及ぶ「王の道」を敷設し、初めて様々な民族が物質的、精神的により充実した交流を行う下地を整えたのです。

アケメネス朝は多文化主義であり、それまでの小さな王朝とは異なり、バビロニア、アッシリアなどの王朝のように、文化的、部族的な略奪や滅亡を目的に軍隊を動員したことはありませんでした。彼らは、平定した人々の文化・文明の支援と存続に努め、彼らに生活上の慣習や儀礼を継続する自由を与えました。アケメネス朝の統治者は、その当時まで戦勝地で行われていた財産や土地の略奪を行わず、その代わりに徴税し、その土地の人々の文化や財産を守ったのです。また、これらの国の人々は宗教、経済活動、商取引の自由を持っていました。長い間にわたって人々の生活の安全を奪っていた破滅的な戦争は収まり、人々はアケメネス朝の支配の中で平和な生活を享受していたのです。

 

アルサケス朝の成立

アケメネス朝は紀元前330年、アレキサンダー大王によって滅亡しましたが、イラン民族の世界的な拡散は変わることなく行われました。それは、アレクサンダー大王がイランの文明と文化に対して初めのうちは弾圧的な対応を取っていたものの、その後すぐに、自らの領土の運営のためには、数百年間に渡って世界的な帝国を運営した経歴を持つ、イランの軍高官や官僚が必要であることに気づいたからです。このため、アレクサンダー大王は彼らのほとんどを以前の統治体制の中で留任させ、自分で建設した町のみをギリシャ人の手に委ね、ギリシャ的なモデルに従って運営させていました。

アレクサンダー大王の死後、短期間で終わったセレウコス朝に続いて、イランにはアルサケス朝パルティアが出現し、1つの世界的な王朝として世界をローマ帝国とで2分割したのです。

アルサケス朝はイラン北東部のアーリア系民族を出自とし、アケメネス朝時代においては中心的な役割を果たしていませんでした。アケメネス朝の文化と政治の中心をなしたイランの中部、西部、南部とは逆に、イラン高原の中のこの地域はアケメネス朝の文化圏では脇役的な存在でした。アルサケス朝は、ギリシャ的な文化の非常に大きな影響を受けた初めての王朝で、ギリシャ語が完全に通用し、ギリシャ語が公用語となっていたのです。彼らは南進した後、ギリシャ人との結びつきから次第に離れ、これまで以上にイランの純粋な文化に傾倒しました。彼らは最終的に、チグリス・ユーフラテス川流域をセレウコス朝から奪還し、セレウキアの町のちょうど向かい側、即ちチグリス川の対岸の町のクテシフォンに首都を置きました。このとき、この王朝のギリシャへの傾倒は完全に消滅し、ギリシャ語ではなく、イランの古い言語であるパフラヴィー語が公用語とされ、イラン古来の宗教であるゾロアスター教が信仰されるようになったのです。この時代における重要な変化とは、アケメネス朝、セレウコス朝時代に副次的な役割しかもっていなかったイランの北東部が、この時期にイランの文化と文明の主要な地域に合流し、こうしてイランオリジナルの文化に組み込まれていったことだったと言えます。

 

シルクロードの出現と様々な民族文化の交流

アルサケス朝時代の重要な変化のひとつに、イランを中継地とし、またイランがその中心となったシルクロードが開通したことが挙げられます。イランでは最も古い時代から、様々な目的を持った、またその距離もさまざまである経路が現れ、ユーラシア大陸における大きな経路につながっていました。この最も主要な道がシルクロードであり、この道は中国中部・西安(シーアン)からヴェネチアなどのヨーロッパの商業都市にまで延長されていたのです。この交易経路には、旅行家や商人、様々な宗教の宣教者が行きかい、それにより世界の様々な地域の居住民が、様々な文化や思想に触れることになりました。

考古学者や研究者は今日、シルクロード上に現れた文化や文明の構成要素の一部を知ることができます。シルクロード上での発掘品や残された情報からは、この数千キロにも及ぶ交易経路での人々の文化や、文明のつながりが明らかになっているのです。一方、学術的な研究がなされたことから、シルクロードにはある種の特性を持ち他の文明や文化と異なる、様々な文化や文明を垣間見ることができます。

中国からボスニア・ヘルツェゴビナに至るシルクロード上や、広範囲な海路、陸路のルート上には様々な文明が出現しました。これらの中には、中国、インド、イラン、ギリシャ、ローマの各文明や、この道を通じてアジア北部の様々な民族による散在的な文明などがあります。また、こうしたルート上においては、様々な文化や宗教の領域が出現、拡大しました。その中には仏教やヒンドゥー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教が含まれています。

 

雑多な文化の交差点となったイラン

シルクロード上に住む様々な民族が関わったイスラム文明は、イランの地理的な条件と当時の文明の繁栄により、中心的な存在として、これまでお話ししてきた全てのルート上において、これらの文化や文明の繁栄の明らかな印を残しています。

シルクロード周辺の全ての地域において、イランやその文化圏は中央アジアのシルダリア川から、現在のイラク領となっているチグリス・ユーフラテス川、現在のパキスタンにあたるスィンド地方、さらにはアナトリア半島の範囲まで及び、シルクロード上における中心的な役割を果たしていました。研究者が認めるように、シルクロードの沿線上にあるイランの都市の多くは、複数の文化の合流点だったのです。

イランの人々は常に近隣の民族、例えば古代ではシュメール、アッシリア、バビロニアなどの民族と、また一方で中国、あるいはインドとも文化、言語、学問、宗教の面で関係を持っていました。イランの周辺地域の住民たちも、当時の輻輳(ふくそう)したネットワークを利用して、イラン人やイランの文化、文明に触れていました。これらの経路は経済的、政治的にも重要性を持っていましたが、シルクロードはイランから見て東にある中国と、西にあるビザンチン帝国や地中海沿岸の国々を結ぶ道として、大変重要だったのです。

シルクロード上の多くの文明では、考古学的なイラン文明、イスラム的なイラン文明やそれに隣接する文明の痕跡をみることができ、その最も明らかな例は中央アジアのフェルガナ地方、バダフシャン地方、トランスオクシアナ、フワーラズム、サマルカンド、ブハラ、テルメズ、バルフ、ホジェンド、マルヴ、ヘラートなどであり、これらの都市には毎年多くの研究者や観光客が訪れています。

 

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