コーラン、第15章ヒジュル章ヒジル(3)
今回もコーラン第15章ヒジュル章ヒジルについてお話しましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
ヒジュル章の第26節から42節までは、創造の大傑作である人間の創造について述べ、その詳細について触れています。これらの節では、神は人間を、黒く乾いた土から創造し、そこに魂を吹き込んだとされています。言い換えれば、人間は元々、土でできています。人間の生命の持続もまた、土から生まれる物質によって、栄養を採ることによります。一部の節では、人間は最初、土から創造され、その後、精液によって増えていった、という点が取り上げられています。しかし、人間の地位が高いものであるのは、神から魂を吹きこまれたことによります。そのため人間は、成長の過程の中で、神の美徳を身につけるのに相応しい存在なのです。
またこれらの節では、天使がアーダムに平伏し、悪魔・イブリースは、自分の方が優れているという理由で、それを拒否したことが述べられています。この出来事は、第7章アル・アアラーフ章高壁でも述べられていました。ここで注目すべきなのは、神が、悪魔には信仰のある純粋な人間たちを欺く力はない、と強調していることです。悪魔に従うのは、道に迷った人々だけなのです。
ヒジュル章の第45節から48節には次のようにあります。
「まことに敬虔な者たちは、泉の沸き出る楽園にいる。[そして、]『心安らかに[楽園に]入りなさい』[と天使たちに言われる。]我々は、彼らの心から、[憎しみや嫉妬、敵意、]わだかまりを取り除いた。彼らは皆、同胞であり、互いに向かい合う形で立派な椅子の上に座っている。そこでは、苦しむことも疲れることもなく、永遠に、そこから追われることもない」
これらの節では、楽園と、その物質的、精神的な恩恵について語られています。敬虔な者たちは、緑の豊かな楽園の泉の傍らに留まります。「楽園」という言葉は、コーランの多くの節に出てくるもので、泉という言葉は、楽園の恩恵が多種多様なものであることを明らかにしています。コーランの数々の節の中で、楽園の泉の様々な種類が述べられていますが、それは恐らく、現世における人間の様々な種類の善い行いを描いたものなのでしょう。
楽園の人々には、心安らかに楽園に入りなさいと声がかかります。楽園の恩恵の最初となる、“心の安らぎと安全”は、他のあらゆる尾根木の源であり、この2つがなければ、いかなる恩恵にも授かることができません。現世においても、あらゆる恩恵の始まりは、この心の安らぎと安全にあるのです。
楽園の人々は、あらゆる苦しみや不快を免れ、彼らを脅かす危険はありません。彼らは現世の苦しい事柄に巻き込まれることがないのです。そこでは、現世の階層の格差は存在せず、憎しみやわだかまりは根絶され、全ての人が同胞となります。彼らは互いに寄り添いあい、決して、苦しみや疲れを感じることはありません。また、いつの日か、楽園の満足を失ってしまうかもしれないという不安に駆られることもありません。なぜなら彼らは、決して、この恩恵に溢れた楽園を追われることはないからです。
コーランを全体的に見ると、楽園にも、庭園や果物、泉や小川といった物質的な恩恵と共に、安全や心地よさ、同胞愛や友愛といった精神的な恩恵も存在することが分かります。楽園の恩恵の優れた特徴は、それらが、全く欠陥や不足のない、完全で包括的、かつ多様で永遠のものであることです。
楽園の恩恵が述べられるとき、罪に穢れた人々は、善を行った人々のよい結果に嫉妬し、自分たちも、その一部でもよいから手に入れることができたら、と願うかもしれません。ここで神は、愛情に溢れた言葉により、預言者にこのように語りかけています。
「[預言者よ、]僕たちに告げなさい。『私は非常に寛大で慈悲深い者である』」
ここで神は、罪を犯した人々のことも、自らの僕の中に加えています。世界を創造した全知全能の神からの、「私の僕」という言葉は、大きな喜びを与える優しい言葉です。それに続き、神は寛大で慈悲深いと表現されていることは、そのような思いを高めます。実際、神の寛大さと慈悲は、深く、次々に注がれるものであるため、罪を犯した僕たちに対して、罪を悔い改め、神へと立ち返り、永遠の楽園に入るよう呼びかけています。
この節で、楽園の恩恵として描かれているものは、実際、現世にも存在する恩恵の基盤です。どうやらコーランは、現世でこれらの恩恵を築くことにより、現世の生活を繁栄させることができる、ということを、指摘しようとしているようです。心の安らぎと安全が世界に戻れば、人々の心からは憎しみやわだかまりがなくなります。同胞愛も強固になり、個人的、社会的な生活から、余計な儀礼がなくなります。そのとき、目の前には、小さな楽園の姿が描かれることでしょう。