ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(2)
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ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー
ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニーは、イスラム暦790年に当たる西暦1388年ごろに、イラン中部・カーシャーンで、優れた医師の息子として出生しました。当時は、ティムール朝がイランを支配していました。カーシャーニーは『ハーガーニー天文図』という貴重な書籍を記した後、それをティムールの孫でティムール朝の君主、ウルグ・ベクに贈呈し、ティムール朝の本拠地だったサマルカンドに呼び寄せられました。
当時、サマルカンドは学問や思想における重要な中心地であり、ウルグ・ベグが建設した、マドレセと呼ばれる教育機関は、学問を学ぶため各地から学生が集まるほどの名声を得ていました。この教育機関は、大きさの点でバグダッドのニザーミーヤ学院、カイロのアズハル大学、スペイン南部アンダルシア地方のコルドバなどと肩を並べていました。
ウルグ・ベクは、サマルカンドに天文台を建設するため、有能な人物をイラン南部のシーラーズや中部カーシャーン、そのほかの都市からサマルカンドに呼び寄せましたが、カーシャーニーもこれらの人物の一人でした。この時代、学術的な活動は王の支援なくしては困難であり、カーシャーニーもウルグ・ベクの支援を受けて、学術活動が続けられると期待していました。このため、カーシャーニーはウルグ・ベクの招きに応じ、当時数学者として知られていた一族のモイヌッディーンとともに、30歳のころにカーシャーンからサマルカンドに移住したのです。
カーシャーニーがサマルカンドに着いたとき、ウルグ・ベクの宮廷の学者たちは、彼らが解けなかった問題を出し、彼を試しました。彼はすべての問題を1日で解決し、このため当時の高名な学者ガーズィー・ザーデ・ルーミーは彼の高い学識を認めました。カーシャーニーはその後、常に王の側近となり、ウルグ・ベクは彼の学識と賢明さを賞賛しました。
カーシャーニーは父に送った書簡の中で、2年間のサマルカンド滞在の中で、解決した問題について語っています。どの季節においても、太陽の光が差し込めば夕方の礼拝の時刻を示す、小さな丸い穴を壁がんに開けたり、直径およそ1メートルほどで、プトレマイオスの天文表にある1022個の星が刻まれた天体観測機アストロラーベを製作したことなどが、これらの問題の一部です。
カーシャーニーはサマルカンド滞在を始めてから短期間で、サマルカンドの学術機関・マドラセの最も優れた学者となりました。彼が短期間で理論的、実践的な業績を挙げたことから、サマルカンドのマドラセは、アジアにおける最も重要な最大の学術機関となったのです。カーシャーニーの業績は概略といえど、多くのページ数を含んでいます。彼はサマルカンドに滞在していた短い時期に、初歩的な計算に関する百科事典『計算法の鍵』を記しました。この本では、世界で初めて小数について説明され、また平方根の値を求める方法についても記されています。この書籍は、ヨーロッパにおける小数の普及に大きな影響を与え、数百年間ヨーロッパの大学で計算の教科書として使われていたほどの大著なのです。彼はその後、『円周論』を記し、小数点第16位までの円周率を計算し、三角関数の正弦、つまりサインの値を正確に導き出しています。
カーシャーニーの実践的な学術活動は、計算理論と同時に行われています。彼は8つの天文学用の機器を発明し、それらの制作方法を自著の中でごく普通に公表しました。彼はまた、この著作において一部の計算のと観察を説明すると共に、月と水星の軌道が楕円であると提唱しました。カーシャーニーの著作『計算法の鍵』のロシア語の翻訳版の序説には、次のように記されています。
「カーシャーニーは15世紀最大の天文学者であり、数学者だった。一部の分野における彼の発明は、中世における完全な学問の見本と言うべきである。カーシャーニーが計算に使用した方法と、彼の業績に見られる絶妙なテクニックは、私達の時代の学者の特別な注目を惹き付けている」
しかし、カーシャーニーの業績の中で何よりも重要なのは、サマルカンド天文台の建設でしょう。彼はこの天文台の基盤づくり、理論的計算、実践的な技法、学術調査や計算のための装置の製作、総体的な組織化に大いに貢献しました。この天文台は人類の学問の歴史における輝かしい成果であり、その後西側における天文台の建設方法に大きな影響を与えました。今日、この天文台の一部の遺構は、サマルカンド東部に残っています。
カーシャーニーの業績に関しては、多くの著作の中で説明されています。15世紀から16世紀にかけてのイランの歴史家ギヤーソッディーン・ハンダミールは著作『伝記の友』の中で、次のように記しています。「プトレマイオスの再来であるジャムシード・カーシャーニーと、モイーヌッディーン・カーシャーニーはこの天文台の建設に努力し、貢献してきた」。ジャムシード・カーシャーニーの助手であった従兄弟モイーヌッディーンは、ジャムシードの著作を、美しい字で記しています。
サマルカンド天文台の建設が開始された時期については、歴史家の中で見解が分かれています。彼らの見解を総合すると、着工はイスラム暦823年から830年、つまり西暦1419年頃から1427年にかけて行われたとされています。この天文台はサマルカンド近郊の丘の上に3階建てで建設されました。この天文台の設計図はジャムシード・カーシャーニーが描き、その設備はカーシャーニーの指示により、イブラヒーム・サッファーリーが製作しました。天文台の建設が終わった後、カーシャーニーは観測と天文表の作成の責任者となりましたが、その製作が終わる前に死去しました。カーシャーニーの著作の一部にあるように、彼はイスラム暦832年、即ち西暦1429年ごろにサマルカンド天文台で死去し、恐らくサマルカンドのチョパンアタの丘に埋葬されたとされたとおもわれます。その他の言い伝えでは、サマルカンドにある当時の天文学者、ガーズィーザーデ・ルーミーの聖廟の近隣のシャーヒズィンダ廟の墓地に葬られたとされています。
カーシャーニーの死については、疑わしい点が存在します。一部の研究者は幾つかの理由により、彼が死亡したのはウルグ・ベクが原因であるとしています。ウルグ・ベクはカーシャーニーの振る舞いに不満を感じ、天文図作成の作業を中止し、カーシャーニーとの協力を打ち切ろうとしていました。カーシャーニーは著作の中で、三角関数のサインの値を注意深く計算し、それを記したことを誇りとしていましたが、ウルグベクはカーシャーニーの死後に完成した、天文図の序文においてサインの計算は自分の功績だとしました。一部の人々も、ジャムシード・カーシャーニーが驚くべき能力を持っていたため、ライバルたちからねたまれる原因となり、彼らはカーシャーニーの行動の全てに抗議し陰口を語り、ウルグ・ベクの前でカーシャーニーの人格やイメージを損な嘔吐していた、と考えています。ウルグ・ベクは、はじめはそのような行為に留意することはありませんでしたが、次第に洗脳されてカーシャーニーを冷遇し、彼が学術活動を続ける道を閉ざしたということです。
イランの偉大な学者カーシャーニーは学術的な業績により、アジアと西洋の両方で名声をとどろかせたものの、故郷カーシャーンから遠く離れたサマルカンドで、孤独な境遇に置かれていました。あらゆる場所で、彼に対するあらゆる陰謀が行われ、反対の声が上がっていました。彼の父は、遠く離れた場所にいる息子を心配していましたが、その懸念は彼とその父親との間で交わされた書簡の中で明らかにされています。カーシャーニーは西暦1429年7月1日、イスラム暦832年ラマザーン月19日、42歳のときサマルカンド天文台で何ものかによって殺害されました。彼が殺害された場所はまさに、彼が生涯をささげ、それを発展させた場所であり、彼の驚くべき才能によって作り出された場所だったのです。
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