イマームアリーの生誕日に寄せて
イスラム暦ラジャブ月13日は、シーア派初代イマーム、アリーの生誕日です。
イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師が、イマームアリーの人格の偉大さに関して次のように語っています。
「大洋を思い浮かべるがよい。この大洋のすべてを知ることは、一見しただけではもちろん、長年にわたって研究を行っても、不可能である。あなたがどこから入っても、大きな海を目にし、さまざまな深さの海、多様な海洋生物が見られるだろう。そこを離れて、海の別の部分に入っても同じである。どこから入っても、そこで驚くべき奇跡を目にするだろう」
「これは、イマームアリーの人格のほんの一端である。彼をどの側面から見ても、そこに奇跡が存在することを悟るだろう。これは決して言い過ぎではない。長年に渡り、イマームアリーの人生について研究したh取りの人間の無力感を示すものであり、彼は、イマームアリーという気高い人物の人格は、通常の理性や力では決して理解できないということを感じている。アリーという存在の大洋には、どこから見ても驚くべき奇跡が存在する」
イマームアリーは、ラジャブ月13日に生まれました。イマームアリーは、奇跡的にカアバ神殿の中に生まれました。
春が訪れ、自然が再生する季節を迎えています。緑が大地から顔を出し、創造主の偉大さを感じる季節です。イマームアリーは次のように語っています。
「大地は美しい庭園によって、皆に喜びをもたらした。花びらの薄手の服を着て、人々を驚かせ、装飾によって見るものを感嘆させた。神は雲を創造した。死んだ大地の一部が蘇り、色とりどりの植物が生えるように。それから次々に雲を送り、大地を覆わせた。また、風が雲から雨を降らせ、それが地面を激しくたたきつけた。雲も下までやって来て、大地に接近し、運んでいたものを落とした。そして、大地はさまざまな植物を芽生えさせ、山の真ん中に緑をもたらした」
イマームアリーの記述や言葉の全集であるナフジョルバラーガは、創造の驚異に関して美しい描写が行われています。イマームアリーは、創造世界に関する深い知識と理解力により、すべての人にそれを利用するよう呼びかけ、春の喜びを高めています。イマームアリーは、鳥について説明する中で、孔雀に言及しています。
「創造の中で最も驚くべき鳥は、孔雀である。神はそれを最もバランスよく創造された。その羽を、もっともきれいな色で飾られた。その美しい羽を傘のように広げる。孔雀の羽の色を大地の植物にたとえるなら、春の花を集めて作る花束のようである」
イマームアリーは、創造について次のように続けています。
「創造の秘密を突き止めるために考えをめぐらせれば、小さなアリの創造も、大きなナツメヤシの木の創造となんら変わりがなく、その創造主が同じであることを悟るだろう。あらゆる生命の創造に隠された、複雑な違いや細かい点について、よく考えるがよい。太陽と月、木と植物、水と石、夜と昼の交代、海の荒波と山々、そして言葉の違い、これらは皆、創造主の明らかなしるしである。運命の決定者を受け入れず、世界の運営者を否定する人は、哀れな人である」
キリスト教徒の哲学者、アントワン・バラは次のように語っています。
「イマームアリーのナフジョルバラーガを、これまで25回以上読んだことがあるが、それでも毎回読むたびに、新たな人間性の例を目にし、これまで以上にその奇跡を理解する」
「アリー、イスラムの哲学」を執筆中のアントワン・バラは、次のように述べています。
「ナフジョルバラーガによって、すべてのことが具現された。あなたの偉大な書物は、私にとって聖書のようなものである。朝も夜もそれを読むと、心を高めてくれる。家族はそれによって美しく心地のよい日々を過ごす」
نهج
イマームアリーは、幼少の頃、預言者ムハンマドのすぐそばで育ちました。イマームアリーが成長するにつれて、預言者ムハンマドも彼のことをますます気にかけるようになりました。イマームアリーは、これについて次のように語っています。
「彼の後をついていった。ラクダの子が母親を追いかけるように。毎日、彼は自分の道徳の一端を私に示し、私をそれに従わせようとした。幼い私を自分のそばに置き、抱きしめてくれた」
預言者ムハンマドが、唯一の神と語らっているのを目にしていたイマームアリーは、他の誰よりも先に、イスラムの預言者ムハンマドの仲間、協力者となりました。イマームアリーは、クライシュ族が預言者に対して陰謀を企てたとき、預言者の代わりに彼の寝床に横たわり、自分の身を犠牲にして預言者を危険から守ろうとしました。その後も常に、預言者の傍らを離れることはなく、太陽の横にある月のように、預言者に光を与えられていました。また、ハンダグの戦いやハイバルの戦いなど、多くの戦いに参加しました。
ハンダグの戦いでは、アラブの著名な英雄と戦いました。イマームアリーは、彼を倒しましたが、最後のとどめはささずに立ち上がりました。そして再び戻り、その英雄を殺してから、預言者ムハンマドのもとにやって来ました。預言者ムハンマドは、「なぜ、彼を倒したときに、すぐ彼を殺さなかったのか」とたずねました。イマームアリーは言いました。「そのとき、彼は私の母親に罵声を浴びせ、私の顔につばをかけました。もし彼を殺したら、神のためではなく、自分の怒りのためにそうすることになるのを恐れたのです。そこで、怒りが静まってから、彼を殺そうと思いました」
イマームアリーは、イスラム暦8年のメッカ征服の年、カアバ神殿から偶像を排除することに取り組み、預言者と共に、流血のない勝利を経験しました。預言者ムハンマドは、最後のハッジ・メッカ巡礼後、イマームアリーを自身の後継者として人々に紹介しました。
イマームアリーの統治は、預言者ムハンマドが亡くなった後、25年間続きました。この頃、多くの価値観が覆され、神の戒律は軽視され、無明時代の慣習が広まっていました。イマームアリーの統治は、再生を意味するものでした。イマームアリーの正義と公正は、それを最も優れた形で示すものでした。世界は、アリーという存在を通して、正義を、そしてそれ以上に人間性を学ぶようになりました。
イマームアリーは、人々や人類社会に対処する中で、包括的な見解を有していました。彼の見方では、人々は社会的に2つのグループに分けられています。一つ目のグループは、宗教的な同胞であり、もう一つのグループは、創造においてイスラム教徒と平等である人々です。そのため、そのどちらのグループの人々に対しても、人間としての尊厳や地位に即した形で対応していました。
実際、イマームアリーは、イスラムの宗教的な価値観を描き、礼拝に勤しむ宗教的な人物であると共に、社会に貢献する政治家でもありました。また、いかなるときも真実を、利益の犠牲にすることはありませんでした。イマームアリーにとって、価値のある知識とは、人間の人格を形成し、その成長を促し、神に近づけるものでした。