ハッジ・メッカ巡礼
イスラム教徒の宗教的な義務のひとつに、ハッジ・メッカ巡礼があります。
資金の点から、そして身体の点から巡礼が可能なイスラム教徒はみな、生涯に一度、現在のサウジアラビアの西部にあるメッカのカーバ神殿に足を運ぶことが義務付けられています。イスラム教徒は、カーバ神殿の方角、キブラに向かって礼拝を行います。つまり、世界のどこにいても、カーバ神殿に向かって礼拝をするのです。カーバ神殿はイスラム教の出現以前、神の命により、預言者イブラーヒームによって新たに建てられ、その後、ここは唯一神信仰にとっての象徴的な場所となっています。カーバ神殿は四角形で、黒い石が置かれており、幕で覆われています。興味深いのは、カーバ神殿がイランの純粋なバラ水によって清められていることです。
イスラム初期の時代、カーバ神殿がイスラム教徒の礼拝の方向に定められていなかったころ、当時イスラム教徒は、現在のパレスチナにあるアクサーモスクに向かって礼拝をしていました。パレスチナとアクサーモスクがイスラム教徒にとって重要なのは、このことによります。
メッカ巡礼については、以前にお話しましたが、メッカ巡礼には特別な儀式があり、そのうちのひとつは、カーバ神殿の周囲を7回回ることです。また、メッカ巡礼は、イスラム暦のゼルハッジャ月に行われることが義務とされています。もっとも、ほかの月に行われるメッカ巡礼も、巡礼とみなされ、これはウムラ、小巡礼といわれています。
メッカ巡礼は、イスラムの教えのすべてを網羅する包括性の象徴です。メッカ巡礼では、毎年、世界各国から巡礼者がメッカに集まり、ともに交流し、情報交換を行います。また、メッカ巡礼の儀式により、サウジアラビア政府にの大きな商業的利益がもたらされます。巡礼者はすべての儀式を終えたあと、犠牲祭を祝います。犠牲祭は神の命によって、預言者イブラーヒームが息子のイスマーイールをいけにえにささげようとした出来事を思い起こす祝祭です。イブラヒームは神の命を実行する上でまったく迷いがなかったため、神は羊を彼に送り、息子イスマーイールの代わりにこれをささげるよう命じました。このことから、現在、巡礼者は羊をほふり犠牲としています。
イスラムは平和を求める宗教であり、テロや民間人、罪のない人に対する暴力やテロに強く反対しています。にもかかわらず、西側メディアは意識的にコーランやイスラムの伝承ハディースを曲解し、ジハード・聖なる戦いや殉教といった崇高な思想をテロや暴力として解釈しています、。しかし、人間のもっとも崇高な思想と精神は、このようなイスラムの教えの中に隠されています。殉教とは、人間の崇高さのきわみであり、また、聖なる戦いは正義の確立のための建設的な努力であり、人間を抑圧や圧制のくびきから解き放つものです。
人間は、友愛などの感情により、戦争を非人道的で恐ろしい行為だとして、戦争の悲惨な結果や犯罪を思い起こすことで、強い衝撃を受けます。しかし、さまざまな状況の中で起こる戦争を防ぐことはできるのでしょうか。
明らかに、侵害の対象となっている集団は、自分たちの権利を守る必要があります。どの国民も、生命や財産を脅かす敵と和解したいとは思わないでしょう。イスラムは聖なる戦いを、命と財産を守るために重要だとしています。イスラムは好戦的な宗教ではなく、イスラムの見解では、侵略者から始められた戦争に対しては応戦します。
聖なる戦いとは、国や個人を守ることに限られず、権利や真理を守る場合、そして抑圧された人々を助ける場合、それは聖なる戦いになります。ある社会の中で、特定のグループは抑圧された存在となる可能性があり、このようなことに関して、無関心ではいられません。
神が聖なる戦いを行ったものに与える吉報は、イスラムにおける聖なる戦いの重要性を物語っています。コーランは、聖なる戦いを大変に利益ある取引にたとえ、責め苦から救われ、現世と来世で成功する要因となるとしています。神は聖なる戦いを行うものに、楽園と永遠の生という吉報を与えるのです。
しかし、イスラムにおける聖なる戦いをすばらしいものにしているのは、聖なる戦いの作法です。イスラムは人類社会における戦争の勃発を避けられないものだと予想しています。罪のない人々や、女性や子供が戦争の中で虐殺されるという悲劇を防ぐよう それを管理・抑制するための法を定めました。戦争というもっとも過酷な状況の中であっても、イスラムは道徳や人間性の問題に特別な関心を寄せているのです。コーランでは繰り返し、戦場において、理性や人間性の範囲で正義と不可侵を配慮するよう強調しているのです。